2024年9月11日
連合大阪堺地区協議会 幹事
(ダイキン工業労働組合 堺支部)
林 卓生
家族旅行や会社・組合での親睦会や慰安旅行など、みなさん色々な所へ行かれているかと思います。今回、コラムの担当となり、何を書こうかと悩んだところ、私の地元を紹介し、1人でも多くの方に地元を訪れてもらえればと思い、郷土徳島県について書くことにしました。四国の中でも大阪からいちばん近いということもあり、訪れたことのある方も多いかと思いますが、代表的なところをいくつか紹介できたらと思います。
はじめに、徳島県は、自然豊かな県で、多彩な魅力を持つ県の1つだと思っています。
訪れるなら、絶対に見逃せない観光名所がいくつかあります。まずは、世界でも珍しい自然現象が見られる「鳴門の渦潮」。大鳴門橋が架かる鳴門海峡の激しい潮流が生み出すダイナミックな景観は、一見の価値があります。次に、大歩危・小歩危峡の奇岩・怪石が連なり、美しい清流が流れる絶景スポット。続いて訪れたいのは、「祖谷のかずら橋」。古くからある蔓で作られた橋で、スリル満点の渡り体験が楽しめます。さらに、世界中の名画が陶板で再現され展示されている「大塚国際美術館」は、美術ファン必見。また、地元の伝統産業「藍染め」が体験できる施設もあります。最後に、「阿波おどり会館」では、日本三大盆踊りのひとつ、阿波おどりの歴史とパフォーマンスを通年楽しむことができます。食の楽しみといえば、地元民のみならず観光客にも大人気なグルメがあります。まず、「徳島ラーメン」は、大きく白・茶・黄の三系統に分けられるスープとトッピングされる肉などが特徴です。また、生玉子が特徴的で、ほとんどの店で生玉子のトッピングがあり、このことから、すき焼きのようなラーメンと表現する人も多いです。魚介類も新鮮で、お刺身で食べる際には、特産の「すだち」を搾ったしょうゆで堪能。「阿波尾鶏」は、地元産の鶏肉で、ジューシーでヘルシーな料理として愛されています。さらに、「鳴門金時のスイーツ」は、鳴門金時というさつまいもを使った贅沢なスイーツ。そして「フィッシュカツ」や「竹ちくわ」などのソウルフードも愛されています。
宿泊先もいろいろとあります。まずは、「鳴門エリアの宿泊施設」が便利で、観光名所へのアクセスも抜群。四国のヘソに位置する「祖谷温泉」は、山間の静かな場所でゆったりとした時間を過ごすのに最適な宿泊地です。また、徳島市内にはビジネスホテルから豪華な宿泊施設まで様々な選択肢があります。「海辺のリゾート」では、美しい海を眺めながらリラックスでき、「山間部の民宿」は、地元の人々との交流を楽しむことができる、温かみのある宿泊体験となると思います。
季節ごとに異なる魅力を提供します。春には、満開の桜が楽しめる名所が多く、花見シーズンが最高です。夏には、「阿波おどり」が開催され、多くの観光客で賑わいます。秋は、紅葉の美しい景色が広がり、自然に囲まれたひとときを楽しむこともできます。冬には、豊富な温泉も満喫でき、寒い季節でも楽しみが尽きません。また、様々な地元イベントが年間を通じて行われており、訪れる時期に合わせて楽しむことができます。
いろいろと思いつくままに書き並べましたが、観光名所、グルメ、宿泊施設など、多岐にわたる楽しみ方が可能だと思います。大阪からも市街地なら2時間半ほどで行くことができますので、機会がありましたら、みなさん、ぜひ、徳島へおいでてください。2024年7月30日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(泉南地区教職員組合)
荒木 寿樹
泉南地区教職員組合、執行委員長の荒木です。連合大阪大阪南地域協議会に関わらせていただき10年以上になります。私たち教職員はオープンショップ制なので、労働組合に入っても入らなくても働くことができます。そんな中私が、なぜ労働組合に入ろうと思ったか。それは、いろんなこと知りたい。何より子どもたちの前に立つからには、知らないといけない。それが一番だと思います。実際、組合はそれをかなえてくれました。学級経営のこと、平和学習のこと、人権教育のこと、働くということ、社会のしくみのこと、そしてこの連合でもいろんな方と出会い、お話しをさせてもらうことで、いろんな学びがありました。自分と社会との関りについても考えることがたくさんあります。
そしてぼくが組合活動を行う上で大切にしていることがありますそれは題名にもある「もやい」です。ここでわたしの出身長崎について紹介をします。長崎では10月7・8・9日に「長崎くんち」というお祭りがあります。その日は長崎市内の小学校は昼からカットになり、多くの子どもたちはお祭りを楽しみます。それぞれの町の奉納踊りを改めて見ると、おもしろいなと思います。龍踊・南蛮船・阿蘭陀漫才・鯨の潮吹き・太鼓山。出島や中華街など、古くから多くの文化がこの街には入ってきていて、異文化が混ざり合い共存していく「ちがいを豊かさに」していったことを感じることができます。いろんな食べ物も有名ですが、卓袱料理に代表される「和華蘭料理」も不思議です。お魚の吸い物・角煮・天ぷら・そして最後にお汁粉と順番に出てくるわけですから確かに訳が「わからん」と思います。
くんちの他にも僕が大好きな行事があります。精霊流しです。8月15日、故人の霊を弔うために遺族が手作りの船を作り、町を練り歩き極楽浄土へ送るという行事です。さだまさしの歌をイメージして、実際に見るとかなり衝撃かと思います。この日は夜中まで爆竹がなっています。どれだけ火遊びしても怒られません(他人に危険が及ぶとダメですよ~)。爆竹祭りです。その精霊流しは基本的には初盆の方が船を出します。しかし、僕はほぼ毎年、精霊流しに参加しています。親戚が毎年死んでいるわけではありません。なぜかというとそれは「もやい船」を町内で出しているからです。もやい船というのは町内で共有する精霊船のことです。
「もやい」という言葉には「一緒に」「共有」「シェア」という意味があります。港町長崎らしく、港の船をつなぎあって流されないようにしたことに由来します。「仲良くもやいで使いなさい」などと使います。また、「もやい結び」は「キング・オブ・ノット」と言われ、結び目の王様と言われています。非常に固い結び目ですが、取ろうと思えばすぐに取れる、とても便利な結び方です。これからももやいの精神でいろんな仲間をつなぎ、自分もみなさんとつながりたいと思っています。
2024年7月23日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(阪南市職員組合)
田中 里志
自宅と職場の距離が956m。
自宅と職場が近くて「ありがたいなー」と思うことのひとつ。
朝ドラを見終わってから、「いってきます」が言えること。
今春から放送されているNHK連続テレビ小説「虎に翼」が好評。日本初の女性弁護士として戦前戦後を生き、のちに裁判官となった三淵嘉子さんをモデルにしたドラマ。女性は結婚し家庭に入るのが当然とされていた時代にあって差別に立ち向かい、法律家として成長する姿が描かれている。
参政権をはじめ女性の権利がさまざまに制限された時代に、勉強を続けること、弁護士になることの難しさ。諸所に盛り込まれるジェンダー視点の出来事からは、決して「昔の話」ではなく今も変わらぬ現実があることを突きつけられる。
物語のテーマは性別や人種などによる差別を禁じた日本国憲法第14条。現在、憲法をめぐっては改憲派と護憲派に分かれているが、第14条について改正を求める声は聞こえてこない。この条文は多くの人々に支持されているのかな。しかし、現在もこの条文は順守されているとは言い難い。
「性別で役割を決めつけていませんか?」この言葉が何度も頭をよぎる。
これまで視聴してきた「虎に翼」を振り返り、私が好きなエピソードを勝手にランキング。
第3位。主人公寅子の活躍を心から喜び、応援し続けてくれた父へ贈った寅子の言葉。「誰の前でも、うちの寅はすごい!って。どんな私になっても、私を可愛い可愛いっていっぱい言ってくれたのはお父さんだけ。」子の寅子を「宝物」と全身全霊で愛し続けた父へ贈った寅子の真っ直ぐな言葉に心が動く。
第2位。初の女性弁護士誕生をめぐる記者会見での寅子の演説シーン。経済的に豊かな家庭で育った寅子が、志半ばで諦めた友や、そもそも学ぶことのできなかった多くの女性たちに思いを馳せながら「怒り」を表明。「生い立ちや信念や格好で切り捨てられたりしない、男か女かでふるいにかけられない社会になることを私は心から願います」と言い放ち「みんなでしませんか?しましょうよ!」と会場の男性たちに呼びかけ、「あらゆる不公平と闘う」と表明する寅子の姿に心打たれた。
第1位。寅子と優三。夫婦の絆。戦地へ赴く前に、優三が寅子に伝えたメッセージ。「僕の大好きな、あの何かに無我夢中になっている時の寅ちゃんの顔をして、何かを頑張ってくれること。いや。やっぱり頑張らなくてもいい。寅ちゃんが後悔せず。心から人生をやり切ってくれること。それが僕の望みです」相手のありのままを受け入れる。相手が相手らしく生きることを尊重する。優三の優しさあふれるメッセージに感涙。
他にも、感動するシーンは数多く。最近、涙腺が弱くなった私にとって、AM8時からの15分間、心揺さぶられ、涙をこらえる時間が続く。
人々の意識の中に長い時間をかけて形づくられてきた、性別に基づく「固定的性別役割分担意識」は男女共同参画社会の実現に向けた大きな障害の一つとなっている。一方、これまでは長時間労働を前提とする働き方が根付いていた男性の中にも、家庭や地域で活躍する人が増えてきている。仕事でも、家庭でも、地域でも、男女ともに自分らしく暮らせる社会の実現が必要。
さて、今朝も勿論「虎に翼」。目標に立ち向かっていく寅子の姿に胸が熱....。
今日も、元気に「いってきます!」
2024年6月6日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(IHI労働組合連合会堺支部)
堀田 真吾
前年度途中から大阪南の幹事になって今期で2期目、まだまだ先と思っていたコラムの担当がついに回ってきてしまいました。大好きなお酒の話や単身赴任生活のことでも書こうかと思いましたが、大阪南のホームページということもありますので、組合活動について書かせていただきたいと思います。
私の出身はここ大阪ではなく愛知県です。実家は知多半島の東海市というところにあり、となりの知多市にある高校に入学し、周りの友達が大学や専門学校に進学する中、勉強嫌いだった私は就職を決め、「週休2日、夜勤なし」との安易な理由で、同じ知多市にある「IHI愛知工場」に入社しました。
造船ということもあり、毎日建造ドックで溶接やガス切断を行うハードな仕事でしたが、入社して2年で造船からの撤退が決まり、その後は橋梁の現地溶接やシールドマシンの組立監督、工場の設備担当などに携わり、社内とはいえ様々な職種を転々としました。
しかしながら、そのような私がずっと途切れずに携わってきたのが労働組合です。はじめは様々なイベントの企画・運営を行う若手の集まり「青年協議会」からスタートし、その後は「職場・支部委員」と機関構成員を務めておりましたが、ある日突然、当時の委員長から「コーヒーでも飲みにおいで」と言われ、組合事務所に行ったのを最後に組合役員としての活動が始まることになったのですが、やはり予想外の依頼だったので即答はできませんでした。
当時の委員長は口ひげを生やしており、サングラスを掛けるとそっちのスジの人みたいでしたが、毎日職場を回り組合員に声を掛け、気軽に相談にも乗ってくれましたし、筋が通ってないようなことを会社がすれば躊躇なく乗り込んでいくような親分肌であったことから、家族とも相談し、最終的には「この人に頼まれたら断れんよな」との思いで引き受けることにしました。
そんな自分も50歳手前となり、立場的にも当時の委員長と同じになりました。当時の委員長と比べればまだまだ未熟ですが、これまで組合活動を行う上で、自分なりに大切にしている事について紹介させていただきたいと思います。
先ずは「あいさつ」です。やはり物事すべての基本はあいさつだと思います。
子供の頃に教わったオアシス運動(おはようございます・ありがとうございます・しつれいします・すみません)ではありませんが、しっかりとあいさつを行うことで自分自身に活力も生まれますし、職場の雰囲気も良くなります。また、あいさつをする時は「明るく元気に」がモットーです。やっぱり組合役員が暗い顔をしていたら、組合員は付いてきてくれないと思います。悩み事などで気分が沈んだり、二日酔いで体調がすぐれない時も常に明るく笑顔でいるよう心掛けています。
次に「職場の声」です。
皆さんご存じのとおり、労働組合は運動(活動)方針を策定し機関会議での承認を経て活動を展開しておりますが、それら活動に組合員の声が本当に反映されているか確認することが大切です。それを確認する一番の方法は、普段から職場に出で「組合員の生の声」を直接聞くことだと思います。自分も出張などで事務所を空ける事が多いですが、事務所にいる時は必ず工場内を回り組合員と対話をするようにしています。これによって事務所に寄ってくれない組合員の方とのコミュニケーションも図れますし、何気ない話をしている時に職場の課題・問題等に改めて気付かされる時もあります。
また、対話をする時は面着に拘っています。昨今はTeamsなど便利なツールもありますが、相手の本音を理解するには面と向かって話をするのが一番です。やはり労働組合の原点は「職場」なので、出来る限り職場に足を運ぶようにしています。
あと、「やってはいけない」という事で、気を付けている点があります。先ほどご紹介したオアシス運動の反対「裏オアシス運動」です。内容は「おれじゃない・あいつがやった・しらない・すんだこと」になります。自分も何気にこのような事を言っているのではないかと思う時があります。これはすべて他人のせいにして自分には関係ないという事になりますので、何事も「自分事」として捉えるよう気を付けています。
これら以外も大切な事はまだ沢山ありますが、先ずはこの3点は守ることにしています。
最後になりますが、組合役員になったのも何かの縁ですし、堺に赴任し大阪南の幹事となったのも何かの縁です。この縁を大切にしながら、お世話になった当時の委員長や諸先輩方が築き上げてきた労働運動をつないでいきたいと思います。また、その活動の中で、ひとりでも「この人に頼まれたら断れんよな」と思っていただけたらありがたいなとも思っています。
以上
2024年4月22日
連合大阪泉南地区域協議会 副議長
(セイサ労働組合)
南田 恭平
ご安全に!
はじめに、私も皆さんと同じで、コラム編集につき内容もなく困りましたが私には大切な家族がいますので、簡単に紹介させていただきます。
嫁さんとは六年前に結婚してお互い独身ではいましたが大事な連れ子がいました。嫁の連れ子と言いましても、写真左の保護猫のボメックス♂
嫁さんは子供の頃から猫が家に居たので、どちらかというと猫派。
僕の連れ子は写真右の小型犬のチワワのミュー♀
ペットショップで大人になり売れ残りで一人さみしそうにいる所を家族に迎える事にしました。
僕は子供の頃から犬がずっといましたので、どちらかというと犬派。
はじめは同居生活から始まったので、人間2犬1猫1の様な多種多様な面白い生活が始まりました。犬も猫も大人になってからの生活になるので相性などを心配していましたが、初対面の時から喧嘩もせず、共働きの私たちの帰りを仲良く待ってくれていました。
時には夫婦喧嘩をした時は近くに寄ってきて仲裁してくれた様に感じました。
毎日が楽しく、あっという間に月日はたちチワワのミューがご老体と言う事もあり、空の虹の橋を渡ることになり、家族が一人減り寂しい中、思い出を振り返ると、猫になんてまったく興味がなかった僕が犬のミューと猫のボメックスのおかげで人間や動物の壁を越えて、政権でもありますが、なになに派とかよく聞きますが、毎日を共に過ごす中で一方的な考えを払拭させてもらえた様に感じます。
月日はたちペットロスを感じながら、どうしてもペットの日用品が必要となるのでペットショップにいかなければならなく、色々な動物を見ていく中で犬派は猫派の壁を本当に越え、ガラス越しにずっと猫をみている自分に気づきまた運命の出会いがありました。
写真左はメインクーン種のココ♂
写真右はラガマフィン種のメル♂
どちらも超大型猫らしく現在の全長は約1㍍以上、体重は6㌔以上ほどありすくすく成長し、気づけば我が家は大家族になり毎日が運動会で嫁ともこれ以上はあかんなと話し合っている中、またしても運命の出会いがありました。
会社で子猫の時に保護しました。名前はちょろ♀
初めて我が家に来る、短毛の女の子なので性格もまったくちがいます。
どの子も個性いっぱいで、相性もよく毎朝4時に全員で元気よく起こしに来るところだけがネックですがストレスなく生活できています。
次の目標もできました。昨今よくテレビで見ます、みんな動物園や坂上動物園でも紹介されています保護猫の里親ボランティアです。只今嫁さんも必死に勉強中で将来的には色々な形でボランティア活動出来たら幸いです。
冒頭の家族話しは長くなりましたが、皆様は日々の仕事やストレスに追われる中で発散できる、趣味や癒しがありますか?
僕はゴルフやテニス、家に帰れば癒しの家族と毎日の晩酌。仕事もそうですが、組合役員活動は家族の協力なしでは出来ません。
ドロドロの作業服の洗濯、毎日の美味しいお弁当、夜遅くに帰宅すれば出迎えてくれる家族には感謝しかありません。
これからも共働きでお互い忙しい日々は続きますが、出来る事をサポートしながら連合泉南地区副議長とし、組合員の声を大事に連合活動に人力を尽くしたいと思いますので、色々な場でお会いする事がありましたら、ざっくばらんに猫の話しでもしながら色々なお話をしましょう。
今後とも、ご指導のほどよろしくお願いします。
ご安全に!
2024年4月10日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(JP労組堺東部支部)
赤松 芳樹
大阪南の幹事になって今期で2期目、2年半が経過しましたが1年を過ぎたあたりからどうしようかと頭を悩ますことがありました。
コラムの担当であります。
最初のうちは森議長から始まって名簿順に上から回ってくるので「まだまだ先やなぁ~」と余裕で構えてましたが、他労組の幹事の入れ替えなどでだんだん名簿の順番が上のほうに上がっていきそろそろ何を書くか考えなくてはと焦っていたところ、第35年度に入ってからコラムの未提出を許さない前事務局長が引退されたこともあってか、コラムの更新が幹事会資料からなくなり「助かった~」と喜んでいました。
安心も束の間、前期で所属していた社会貢献小委員会から組織強化小委員会に変わり年間計画の策定の際、組織強化委員からコラムを担当していくことになってしまいました。
書くネタも思い浮かばず、小委員会があった1月15日からネタ作りで誰も興味がないおじさんのダイエットを始めることとしました。
まず帰宅して久しぶりに体重計に乗ってみたところ「71.9kg」自分史上最重量級の体重、ここからスタートしてどうやって痩せようか考えて、とりあえず夕食の炭水化物を抜いて、ビールは糖質0に変更、少しずつ筋トレと有酸素運動をすることにしました。
実際始めて見ると夕食の炭水化物は白ご飯抜きで、野菜炒め、野菜鍋と野菜中心で順応できましたが、鈍り切った50過ぎのおじさんの体は2週間で股関節を痛め10日ほど休む羽目に。
その後運動再開で有酸素運動を続けましたが3月に入ってからは休みがちになってしまいました。自分は4月のコラム担当、締め切りは4月15日、気が付くと締め切り1ケ月前で体重は「68.9kg」と2ケ月で‐3kg、痩せてはいるのがダイエットを謳うには恥ずかしすぎると本気のダイエット開始、昼食も炭水化物抜き、幸い体力と筋力は少しついてきたので筋トレを限界まで追い込んで運動後はプロテイン、夕食の野菜に加えて鶏むね肉、最初はウォーキングメインだった有酸素もジョギングメインに、L‐カルニチンのサプリも2倍に増やし頑張った結果4月10日現在「64.9kg」と1ケ月で4kg痩せることができ3ケ月で7kg減量と何とか結果を残すことができました。
2024年1月30日
連合大阪泉州地区協議会 副議長
(川本産業労組)
古川 幸男
コラムを書くことになりテーマを何にしようか悩んでました。皆さん色んなテーマで書かれているのを拝見し私も何か良いテーマが無いか考えましたが、最近の私にある変化について書こうと思います。
先ず私のスペックについて紹介します。当時、身長は175㎝です。体重が・・・〇〇㎏・・・相当ヤバいです。特におなか回りなんかは目も当てられない状態です。当時は「アカンなぁぁ・・やせなやなぁ・・・」と漠然と考えていました。そこからの奮闘記?をテーマにしたいと思います。
2020年12月30日
「すごく太っている・・・」
もともと肥満体系でしたが初めての一人暮らし、しかも男の子なので自炊をすることも栄養管理を気にしない生活をするとこうなるのかと思い強烈に印象に残っています。
その日恐る恐る体重計にのってみると・・・99.9㎏あと100gで100キロやん。これはアカンと思ったのがきっかけになります。
大晦日の晩御飯を食べた後奥様に相談し、どうダイエットすればいいか相談しました。奥様もまぁまぁの肥満体系でもあり一緒に頑張ろうということになり、今でもお互い頑張っています。
で、方法はまずへなちょこな足腰を鍛えようということで歩いて神社にお参りに行くことにしました。(徒歩往復40分くらいの所にあります。)普段から歩くこともしていないので少し不安でしたがいお参りに行って帰ってくると何とかいけるかなと思いそこからスタートしました。
この日から日々の日課として散歩を毎日するようになり今でも続いています。最初の頃は30分程度でしたが今は1時間位歩いています。(寒い日、暑い日もありますが頑張っています!)
ダイエットを始めて3か月がたち歩くこともだいぶ慣れてきたころ、いつも同じコースを歩いているのもなんだか飽きてきて別のルートを色々探していました。
そこで山に登ってみようかなと思いグーグルで検索してみると(岸和田在中)家から車で15分ぐらいの所に「神於山」がありました。標高は300mと高くなく40分くらいで頂上まで行けるお手軽な所を発見し登ってみることにしました。
今まで登山等したこともなく急な坂道の連続に途中で引き返そうかなぁと何度も思いましたが何とか山頂に到着したのを覚えています。その時山頂に登った時すごくスカッとした気持ちになりました。あまり詳しくないのですが脳内物資が出ていたのかなと思います。
そこから登山が病みつきになり休日の何もない日には登山に出掛ける様になりました。季節で色々な表情が見れますし野生のウサギにも遭遇したことがあります。非日常が体感でき、ストレス発散になるのかなぁと感じています。
(写真は神於山からの風景と牛滝山の滝) 奥様からスポーツがしたいと提案があり、奥様が昔中学生の頃部活でやっていたバドミントンをしようとなりました。私は昔から球技がすごく苦手で特に道具を使ってするスポーツ(野球やテニス、卓球等)当たらなければ全然面白くないスポーツはすごく敬遠していました。
ラケットとシャトルを買ってまずは公園で撃ち合ってみると意外と当たったので面白いなと思いました。体育館を借り二人で1時間練習をすることにしました。
終わった時の感想が「とにかく暑い。汗かきすぎ」です。始めた時期が7月とめちゃくちゃ暑く、バドミントンは“風”があるとダメな競技です。なので窓は全て閉めて行うのでかなり蒸し暑いです。これはヤセルと確信しました。
それからも二人でちょこちょこ練習することになりました。2カ月経過した時体育館のチラシにバドミントン教室開催のお知らせがあり、行ってみることにしました。そこで基礎を教えてもらい今でも毎週木曜日に通っています。
バドミントンはすごく良いスポーツと思います。皆さんもぜひやってみてください。昔やっていた方も一度対戦してみませんか?
毎月第二土曜日の19時から岸和田市中央体育館で練習会があります。200円で参加できますので興味がありましたらぜひ参加してください。
(連合泉州の田中議長はすごく上手です。いつもコテンパンやられています。)
最後のまとめになります。ダイエットを始めて2年が経過しました。今の体重は“80㎏”です。食事制限等は一切していません。運動だけでここまで来れました。
なのでダイエットがきつい、しんどいとゆう思いは一度もありませんでした。ちなみに奥様も一緒にダイエットをしていましたので体重は伏せますが20㎏の体重減に成功しています。
ここまで続けてこれたのは上記ことで何より“楽しい”が成功の秘訣かなぁと思います。今は80㎏ですがまだまだ頑張ろうと思います。目標はあと“10㎏”で70㎏を目指したいと思っています。
もし今体重で悩んでいる方がいたらぜひ何か始めてもらいたいと思っています。先ず体重計に乗ってみてください。そして現実を知り絶望してください(笑)。そこからスタートと思います。そして焦らずゆっくりでいいので毎日日課に出来るようなことから始め、体重を毎日記録してみてください。いい思い出になります。
1カ月で1㎏減を目標に頑張りましょう!
2023年10月24日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(コニカミノルタ労組)
原山 義雄
みなさん何か没頭できることお持ちですか?
私もそれなりにいろいろな趣味や仕事でのこだわりを持ってきたつもりでしたが、没頭しているとまでは言えないというものばかりでした。ゴルフやスノーボード、カラオケなどなど。
そんな私も没頭できることに出会えました。それは、「メダカの飼育」です。
近年、ひそかにブームとなっているメダカをご存じでしょうか?
全国各地で多くのイベントが開催されるようになっており、「これはメダカなのか?」と目を疑うような個体に出会うことができます。
メダカの魅力を余すところなくお伝えしたいところですが、没頭できるって素晴らしかったんだなということに触れたいと思います。
これまでの趣味っぽいものとの差は、「行動力」に現れると思います。
別に好きでもないDIYをしたり、今年の猛暑のなかでも日に焼けるのも構わず3, 4時間水替えや採卵などの作業したり、、、それが楽しい。
私の所属するコニカミノルタ労働組合では、コミュニケーションを活性化させようということで、度々「偏愛マップ」というツールを用いてきました。参加者の好きな「食べ物」、「スポーツ」、「有名人」、「音楽」、「言葉」などなど10個程度の質問をして、シートを作りコミュニケーションの機会にみんなで共有しようというものです。
没頭していることについて話をしている人は、やはり魅力があるものです。こういった機会では、聞く側も「知らんよ、、、」、「興味ないよ、、、」という姿勢ではなくて、「知りたい」、「もっと話してもらいたい」という姿勢が大事になってきます。
自分との共通点が見つかる、そうでなくとも人柄を知ることができる、当たり前のことのようですが、新型コロナによってこういったコミュニケーションにも仕掛けが必要になってきているのではないかと思います。
没頭できること、自ら進んで関わろうとする気持ち、とても大事だったんだなと改めて実感しています。労働組合や連合の運動・活動においてもこのような気持ちをもって取り組み、個々人の魅力を認め合っていくような組織にしていきたいですね。
最後になりますが、この11月の定期総会を持ちまして、連合大阪南の役員の任をおりることとなりました。2年間という短い期間でしたが多くの方とのつながりが作れたこと、運動を通じて視野を拡げられたこと、大変感謝しております。引き続き自組織では労働運動に携わっていきますので、後任とともに連合大阪南の運動を盛り上げていければと思っています。ありがとうございました。
2023年10月12日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(住友ゴム労働組合 泉大津支部)
正木 成彰
皆さんの実家はどんなところですか?
私は、大阪最南端の町「岬町」で育ちました。山あり、海あり、自然が豊かなので帰るたびに癒されますが、自分が小さい頃の雰囲気と大分変わってきてるのを見ると少し寂しく感じます。
さらに今、堺市に住んでいるので「都会はやっぱり便利だなぁ」と感じることが多いんです。でも、それって田舎での経験があるからこそ、当たり前と感じずに感動できるんだと感じます(大袈裟ですね。。。)
今回は、そんな私の地元の岬町を少しだけ紹介したいと思います。
実家の最寄り駅の深日港(ふけこう)はこんな感じです。高校へはここから1時間半かけて通っていました。
2両編成の単線に乗ってみさき公園駅まで行けますが、1時間に2~3本しかありません。確かに不便ですが、景色が綺麗で贅沢な時間を過ごせます。
深日港で降りて少し歩くと、ここに辿り着きます。今は釣り人がほとんどですが、私が小さい頃は、ここから淡路島や徳島行きのフェリーが出ており混雑していました。
期間限定ですが、淡路島⇔深日港のフェリーが運航していますので、自転車を乗せて淡路島観光とかどうですか?
岬町にはこんな綺麗な夕陽を見れるところがあります。中学生の時は、体育の授業や部活でここの海岸線を走っていました。その時は、「しんどいなぁ」と思いながら走っていましたが、今考えるとすごい良いところを走っていたんだなぁと思いますね。
写真は長松海岸です。「日本の夕陽百選」に選ばれています。
不便ですが、私にとっては大好きな地元です。
皆さんも都会、田舎に関らず、地元はあるはずです。「最近帰ってないなぁ」って人は、次の休日に一度帰ってみては?
新しい発見があるかも!?
2023年8月16日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(旭精工労働組合)
井上 靖
もし君がそれを作れば、彼はやって来るだろう。
とうもろこし畑で彼はその声を聞く。そのどこからともなく聞こえた声を耳にした後に、主人公は自分のとうもろこし畑に幻の野球場を見る。
「もし君がそれを作れば、彼はやって来るだろう」それは野球場であった。
これは映画「フィールド・オブ・ドリームス」の冒頭の場面です。
私は、長男と次男が小学校低学年から野球をやっており、長女もソフトボールをやっていた事から、仕事や組合活動以外の時間は全て子供たちのサポートに時間を使っていました。当然、ゆっくり映画鑑賞する余裕など皆無の状態が十数年間続きました。
昨年、次男が高校に入学し、やっと自分の時間が持てるようになりました。(嬉しくもあり、寂しくもありますが…)
この映画は、1990年に公開されたヒューマンファンタジー映画で、見たことがある方も多いと思いますが、私も久々に見て感動しました。
「その声」を聞き、破産寸前だった主人公の農夫は、収穫前のとうもろこし畑を平地にしてアイオワの田舎畑に野球場を作る決心をしました。その夜、彼はその気持ちを妻に打ち明けます。「あなたがそうしたいのなら、私は構わないわ。」絵空事のような夫の提案に、妻は躊躇もせずに同意しました。
こう言う言葉を妻に言ってもらいたい夫は、世の中に何万人もいるのではないでしょうか。私にはこんな提案をする勇気もありませんが…映画の中の話だからと言われるかも知れませんが、生まれも育ちも違う男と女が夫婦となって、同じ道程を歩いて行こうとすれば、理屈では説明できない何かがあったり、生まれたりします。私は小さい頃から実はこんな風に生きてみたかったとか、こんな風に世の中を考えていたとかいった話になったとき、お互いの気持ちを理解し、笑って頷きあえる関係が夫婦というものではないだろうかと思います。
劇中、今は筆を執らなくなった老作家のセリフで「この国(アメリカ合衆国)は、たくさんの過ちを犯してきたが、野球だけは国技として国民が守り通してきた。この国土の中で野球場だけが、この国の人間が誇りと夢を持てる場所だ。」といった内容のものがありました。メジャーリーグは野球の最高峰でありますが、こういった歴史・文化に培われた背景があり、日本や各国の野球選手が目指す場所となっているのではないかと感じました。
最後の場面では、主人公が作った野球場で確執のあった父と再会し、キャッチボールをするシーンはとても感動しました。興味のある方は是非ご覧になって見てください。
私自身も中学・高校、そして草野球を含めると、かなり長い期間野球をやっていました。その影響で、子供たちも野球を始めたと思います。最近では、長男と次男が地方に行っているため、家族5人が揃うのは正月くらいになりました。家に帰って来ると2人とも必ずキャッチボールをしようと言ってきます。野球の基本はやはりキャッチボールだと思います。技術を上げるための基本でもありますが、初対面の相手でもボールを受け取り、投げ返しを繰り返していると何となく、相手の良いところが見えてくる気がします。暴投をして「ごめんな。」「いいよ。」と言葉を交わしながら、汚れたボールをユニフォームで拭いて投げ返す。これは人間同士のコミュニケーションの基本と同じだと思います。
長男も次男もニヤニヤしながら「もう親父には負けてないぞ。」とか「よく一緒に練習して怒られたな。」とか色々な思いをもってやっていると、次に娘が入り最後に嫁が入り、5人でワイワイとキャッチボールをしている家族を見知らぬ人が見たら、さぞかし変な家族に見えるんでしょうね(笑)
2023年8月4日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(NTT労組 関西総支部 大阪南分会)
平見 勇
本年、8月4日の単組の分会大会をもって分会長を解任となり24年間の役員生活にピリオドを打ちました。
初めて組合の役員をさせていただいたのが今から37年前の23歳でした。当時の現役役員が全員退任し、新人6名で分会運営を回さなければならないことになり、手探り状態で進めていたことを昨日のように覚えています。役員となった4年後、12年ぶりとなるストライキ突入の経験もさせていただきました。90分間のストライキでしたが、私にとっては初めてのことで前日から徹夜でFAXの前で妥結報告を待ち続けていたことを思い出します。夜が明けてもFAXは反応せず8時30分にストライキ突入となり、中庭で全組合員を集め確認集会後、近くのホテルへ異動・待機行動となりました。そのホテルからは、お客様が営業窓口に来店するのが確認できる為、当時の係長連中は『早く仕事に戻せ』と強い口調で迫られましたが、怯むことなくストライキ解除まで待機行動を続けた結果、午前10時に全組合員が職場復帰となりました。
それが、ストライキ突入の最後となり現在に至っております。私より若い今の役員は、経験しておらず貴重な体験をさせていただきました。今年の春闘では会社との交渉が膠着状態の中、中央本部はストライキを打つ構えも見せず、あっさりと妥結してしまったことに対し残念な思いが一杯です。来年こそは、もう少し粘り強い交渉を願うばかりです。
それから数年後、分会が解散となり当時、団結した役員もそれぞれ転勤となりました。私自身も一組合員となり組合活動は側面から協力させていただく日々が続きました。それから20年後、あるビルへ異動となった時、私の前任の分会長と再会し、再び労働組合役員に引きずり込まれ現在に至っております。そのおかげで、色々な経験もさせていただきましたし、沢山の人との関わりを持つこともできました。この間、関わった人たちは私にとっての貴重な財産であり、役員を退任した後も交流し続けられる友人となることでしょう。
また、連合の皆さんにも大変お世話になりました。堺地区協議会の幹事として4年、大阪南地域協議会の幹事として4年、合計8年間お世話になりました。この間、様々な取り組みや研修・イベントがありましたが、堺地区時代ではハーベストの丘でのメーデー、早朝集合での駐車場警備や前日の会場設営、抽選会の準備等々、大変でしたが充実した時間でした。研修では、国会議事堂視察にも参加させていただきました。生まれて初めての国会でしたので大変、勉強になりました。衆議院本会議も傍聴させていただき、白熱した答弁を間近で見学させていただき感謝申し上げます。
大阪南地域では、7月初めに開催しました、大阪南労福協設立25周年記念事業「東北視察団」に参加させていただきました。女川町の復興状況や雄勝ローズファクトリィーガーデンでのボランティア活動、震災遺構である大川小学校での視察では、この小学校に通っていた小学6年生の息子さんを亡くされたお母さまが、語り部として涙ながらに当時の状況を話してくださいました。
その内容は、地震発生後児童たちを50分間校庭で待機させ避難しなかったこと。二次避難先を想定しておらずその場での議論となり、結果的に1分で逃げることができた裏山ではなく、「橋のたもとの小高い場所」への避難を決めたことにより、児童74名・教員10名の尊い命が奪われました。津波に対する防災訓練や避難訓練を定期的に実施されておれば、助かった命であったことを思い知らされました。日頃から備えの重要性をしっかり訴えるとともに、防災・減災の取り組みを推進させていただきます。
この間、沢山の経験をさせていただきましたことに感謝申し上げます。これからは、若返った単組の新分会役員の後押しができればと思いますが、余り出しゃばらないよう見守りたいと思います。
本当にありがとうございました。
2023年7月10日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(阪南市職員組合)
金田 益幸
みなさんは、日ごろから続けていることでやめられなくなっていることはありますか。私自身思いのほか続けてしまいなかなかやめられず今でも続けていることを紹介したいと思います。
毎日続けていることでやめられなくなっていることとは、「1日1万歩以上歩く」ということです。8年ほど前から健康のために万歩計を買い1日の歩数を記録するようになりました。
この1日1万歩以上歩くということは、月曜日から金曜日までの仕事のある日はそう苦労しなくても歩けますが、土曜日、日曜日の休日については、意識して歩きに出ないと1万歩以上歩けません。そのため、当初から毎日1万歩以上歩いていたわけではなく、今月は、毎日1万歩以上歩いたというように、1か月間連続を達成したということで満足していたのですが、2021年の4月末から1日1万歩以上歩くことをしばらく続けていると、どこでやめればいいのかということになり、とりあえずは2021年の12月末まで続けて、新年でやめてしまおうということで続けていると、年が明けて以降も結構歩くことがあり、終われずに続いてしまい、それでは、4月末の1年を節目にすればいいかということでさらに続けた結果、無事に1年間毎日1万歩以上歩くことができました。
1年間連続を達成したときに思ったことは、4月末から次年度の4月末までの1年間では、1月から12月までの1年間は、達成していないなと思い、次の年まではやめられないという思いに至ってしまい、そこから雨の日も風の日も歩き続け、2022年の1年間でも達成しました。そうなると次は、年度の4月から3月の1年間はまだ達成していないなと思い、3月までさらに続けた結果、3月末で2022年度での1年間も達成しました。ここまでくると、2023年4月末の2年間連続達成までもう少しなので、4月末まで続けて、5月をもって続けるのは終わろうという思いで4月を過ごし、2年間に渡る1日1万歩を達成しました。
5月の連休に入り、いよいよ1日1万歩の連続記録をやめてしまうと思うと非常に惜しいと思うようになり、結局歩きに出かけ、現在(7月10日)でも続けてしまっています。考えてみると、2年以上続けられたのも、新型コロナに感染することもなく、何年かに1度なってしまうぎっくり腰にもならずに健康に過ごせているおかげだと考えると、今後は、意識して歩くのをやめることはやめて、続けられる限り続けていこうと思うようになりました。
同じように、組合の役員についてもやめられず21年間続けています。こちらの方は、やめたくてもやめることは許されなかったということもありますが、振り返ってみますと組合役員をもっと早くやめたら良かったなという気持ちは今では全くなく、組合役員を続けていて良かったなと思っています。ただ、組合役員については、残念ながらもう少しで辞めないといけませんが、それまでは、これまで通り組合活動に取り組んでいく所存でありますので引き続きよろしくお願いします。
2023年6月19日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(関西マツダ労働組合)
山田 晋
2022年11月24日開催、第13回幹事会
の≪協議事項≫『5.ホームページ「コラム」更新担当について』において、執筆者の一人に「6月 山田幹事」と記載されていることに気づいてから、あっという間に6月になって順番が巡ってきました。
最初に書こうと考えていた内容は、私が選挙権を得た20歳の初投票での「零票確認」を皮切りに、2度に及ぶ「いわゆる大阪都構想」での苛烈なポスティング経験を通して、私なりに考える民主主義について書き連ねようと推敲を重ねて「ヨシッ」と極めて真面目に書き始めました。
しかし提出期限の15日の朝を7割程度の進捗状況で迎えてしまい、その日の18時から始まる「第7回社会貢献小委員会」までに仕上げようと頑張ってみたものの間に合わずタイムオーバー。期限の延長をお願いすることになってしまいました。そんな切羽詰まった状況なのに小委員会終了後の懇親会での酔いに任せた会話の中で「何かオモロイ表現」に書き換えようと思い立ってしまい、案の定、拙い文章表現力が邪魔をして一向に前に進まない泥沼にはまり込んでしまったのです。もはやこれまで、この行き詰まりを何とかするには「アレ」を出すしかあるまいと覚悟を決め、「関西マツダ労働組合
執行委員長プロフィール」をここに開陳する次第であります。
弊社の営業活動において、お客様との距離感を縮めるため、親近感を持ってもらうために営業スタッフは「プロフィールシート」を作成して名刺代わりにお渡しする手法を取ることがあります。それに倣って、新入社員向けの労働組合説明会で私が使った「プロフィールシート」がコレです。
説明会では「労働組合とは?」から始まり、組合活動について一通りの説明を真面目に行ったのですが、最後の質疑応答の時間では労働組合とは関係のない「委員長の個人的エピソード」に終始するという結果に。経営側は労使関係が良好であること(コッチはそんなに良好だと認識していないんですけど!)を、組合代表者の口から新入社員に対して語ってもらいたいがために時間を設けているんでしょうが、「エアガン・モデルガンの保有数」とか「嫁姑問題の現況」等を含めた「オッサンのやらかし小ネタ発表会」の様相を呈する結果になってしまいました。
就業時間内に業務と関係のない話で盛り上がるのは非効率的であり不謹慎だと指摘する人が一定数いることは承知していますが、商品(自動車)を介してお客様との繋がりを大切にすることが求められる自動車販売会社で「その人を知る」ことなくしてビジネスは成り立ちません。昨今のマツダ車は商品力が向上し「売り易い」環境になったことは喜ばしいのですが、商品力に頼り過ぎた「販売」に陥ってしまい、「その人を知る」ことを含めて創意工夫を凝らし提案する「営業」が疎かになっていることが課題となっています。
私は「ムダ話に解決の糸口がある」をモットーに営業活動を続けてきました。傍から見れば「ダラダラ」しているとしか見られないのですが、それなりの成果を出せたこともあって組合活動もこのスタイルで続けていくでしょう。「ダラダラ」と意味もなく書き連ねた文章を最後までお読みいただき有難うございました。
期日までに提出することができずにご迷惑おかけしたことを陳謝申し上げるとともに、次の機会がいただけるのであれば期日を守ることをお約束します。
2023年5月2日
連合大阪大阪南地域協議会 幹事
(関西電力労働組合 南大阪支部)
永田 龍馬
今回このようにコラムを書かせて頂く機会を与えて頂いたことに感謝申し上げます。
人生も半ばを過ぎた、このタイミングで「自分らしく生きるとは」をテーマに自身を見つめ直す機会となればと思いこのテーマを選定致しました。
「自分らしく生きるとは」なんだろうかと考えたとき、漠然と思いついたのが、「他人の評価を気にしないで、自分の思った行動や選択をする」と言ったものです。
心のままに何者にも捕らわれず自由気ままに生きていけたら楽しそうだし、そんな風に生きてみたいと思いましたが自分には、「実践するのは難しいな」と感じました。
理由は、2つあります。
1.他人の評価が気になる
社会とのつながりの中で、誰かに認められたり、感謝の言葉をもらったりすると嬉しく思いますし、その事が励みに次も頑張ろうと言った気持ちになる。
2.今まで積み上げてきた信頼関係が崩れる
その時の気分で行動する事で、約束をしていたけど気分がのらないので急遽キャンセルするなど、他者をかえりみず自分がその瞬間やりたいことだけを続けていくと、周りの人達に愛想をつかされる。
以上の理由により実践は難しいと感じましたが、この事は誰しもが無意識の中で、他者にどの様に評価されるか・自分の行動が周りにどの様な影響を与えるかなど総合的に勘案し行動しているように考えます。
社会的な繋がりを保ちながら、自分らしく生きる事は難しいと感じますが、それでも自分らしく生きるために何が出来るのか、もう少し深堀したいと思います。
そもそも「自分らしく生きるとは」=「他人の評価を気にしないで、自分の思った行動や選択をすること」と言った考えは正しいのか?
この事を思索していると、孔子の言葉にある「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」が頭に浮かびました。
現代語にすると、「立派な人物は、他人と協力し協力関係を築くが、安易に同調しない。
つまらない人物は、他人に安易に同調するが、協力関係は築けない」となります。
この文章を自分なりに解釈すると、「他人との関わりや協力関係は必要だけど、自分の考えを持たず、他人の意見を受け入れるだけでは、協力関係は築けない」と言った内容だと考えました。
※私が考える協力関係とは、決して一方的なものでは無く、力を合わせ事にあたり対等の立場でシナジー効果により個人が持つ能力以上の成果を出すと共に、お互いが今より成長し合える関係と言った事です。
他者の意見を従属的に受け入れ、自分の考えを持たずに行動するとそこには、協力関係を築く要素は無く、時に他者と意見が分かれる事があっても、しっかりと議論し自分の考えを分かってもらう努力をする事・相手が不誠実であるならそれを正す事・相手が自分と違う意見なら、なぜその考えに至ったのか理解する努力をする事が大切だと考えます。
そうする事で、協力関係を築く事が出来ると考えます。
「自分らしく生きるとは」の答えは、まだ見つかりませんが、まずは、自分で考える事を大切にし、他者との協力関係を築く努力を怠らない事が、自分らしく生きる事に繋がる様に感じます。
ひとまず、この考えを大切にしていきたいと思います。
そしてこれからも、自分らしく生きるために何が出来るか探求して行きます。
それでも、一人で悩むことは、しないでおこうと考えます。
「悩む事」と「考える事」は類義語になりますが、私は似て非なるものだと感じています。
「悩む事」も「考える事」も思考する行為は同じですが、心のありようが全く違うからです。
「悩む事」とは、課題を解消するための方法が判らず、問題の全体像が把握できない中で、思考が堂々巡りとなり、課題解決に向け歩み出せない状態を指すと考えます。
自問自答を繰り返し、思考の堂々巡りが続けば、悪い事ばかりが頭をもたげ、非常につらく悲しい気持ちになります。
他方「考える事」とは、課題を解消するための方法を自分の中で見つけ出そうとしている状態を指すと考えます。
課題解決に向け積極的且つ前向きに取り組んでいる状態である事から、つらく悲しい気持ちになる事はありません。
今このコラムをご覧になられている方の中には、生きづらいと感じて日々過ごされている方もいらっしゃると思います。
また、どうしようもない事情で不安や不満を抱えて日々過ごされている方もいらっしゃるかと思います。
色々ややこしい事を一人で悩んでいても、近視眼的な考えに陥り解決できるものではありません。
誰かに相談する事で、心を軽くして視野を広げ俯瞰的に物事を見つめ直す事が出来れば、解決に向けて一歩踏み出す事が出来るので、一人で悩む事は避けるべきだと考えます。
私自身も日々、生きづらさを感じる事がありますが、そんな中でも自分らしく生きる努力を続けて行き、時には誰かの力を借りながら、周りの人達と協力して一緒に成長できる関係を築いていきたいと思います。
人生も半ばを過ぎて、改めてこの瞬間を生きている今を大切にしたいと思います。
あとがき
幸せの捉え方はひとそれぞれ違います。
境遇もひとそれぞれ違います。
自分と誰かを比べても仕方がないです。
私の人生の主役は、私であり、あなたの人生の主役は、あなたです。
皆さんもあなたらしい生き方を探求し続けてください。
最後までお読み頂き有難う御座いました。
2023年4月12日
連合大阪大阪南地域協議会 会計監査兼幹事
(私鉄総連 南海電気鉄道労働組合)
小原 和也
私は1990年(平成2年)に入社をして、駅係員を2年、車掌を1年経験したのち1994年(平成6年)2月に南海線の鉄道運転士を拝命した。ちょうどこの年は関西国際空港の開港の年であり、労働組合に携わるようになったのもこの年であった。私にとっては人生のターニングポイントになった年である。それから2020年(令和2年)7月に組合本部専従になるまでの26年間、鉄道運転士として勤務した。
昔「芸能人は歯が命」と謳ったコマーシャルがあった。当時、動力車操縦者運転免許(以下、免許)を取得する為に運輸教習所(当時)に入所し3カ月半、運転法規などを勉強する。その際、教師から「鉄道は信号が命」と教えられた。鉄道は車と違い、基本前進しか出来ない。運転士は前方注視をし、様々な信号を確認しながら進んでいくのだが、信号は多岐にわたる。皆さんが街で見かける交通信号の他に、標識や光、音を発して運転士に知らせる物、全てが信号である。よって免許を取得するためには、身体検査、適性検査の他、視力や聴力も国が定める基準以上でないと取得することが出来ない。運輸教習所での3カ月半が終わると、専任の教習指導員に付いてこれまた3カ月半、見習運転士として実技を教わる事になり、国家試験に合格して晴れて免許を取得し、一人前の運転士として一人で乗務することが出来るようになるのである。
しかし、免許を保持するためには半年ごとの身体検査、3年ごとの適正検査が義務付けられている。我ながらよく26年間も保持することが出来た(決して免許を保持することが出来なくなったために本部専従になった訳ではない)ものだと思う。電車の運転は楽しかった。季節や時間帯、天候、乗車している旅客が同じになることは決して無く、いつも新鮮な気持ちで運転していた。安全運行のために私自身いつも「この電車に一番大切な人が乗っている」これを心掛けていた。一番大切な人が乗っていれば、加速やブレーキに気を遣い、乗り心地を最優先にするからである。「運転士は前だけを見て運転していてはいけない。後ろを感じながら運転する」そうすれば自ずと乗り心地に気を付けながら運転出来ると思っていたし、そうしてきたつもりである。
今、執行委員として組合本部で専従しているが、会社と交渉するにあたっては、前だけを見ず、職場を感じながら今後もおこなっていきたいと思う。
2023年2月17日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局次長
(自治労 貝塚市労連)
澤田 元博
「この度、連合泉南地区協議会事務局長を拝命しました澤田元博と申します。力不足ではございますが、皆様のお力をお借りしながら精一杯頑張りますので宜しくお願い致します。」連合大阪南地域協議会では事務局次長、昨年に引き続き、社会貢献活動小委員会の方へ所属させて頂きベルマーク活動・使用済み切手・こども食堂の活動に汗をかいて行きたいと思います。
最近の世界的な大きな出来事として昨年起きたロシアによるウクライナへの侵攻、これは武力行使による現状変更を狙うもので言うまでもなく絶対に許されない行為であり戦争は最大の人権侵害であると言う事を忘れてはなりません。そして2023年2月7日早朝に起きた!マグニチュード7.8のトルコ・シリア大地震の事が頭に浮かんでくるのではないでしょうか?現地では、日本からの緊急援助隊をはじめ世界各国からの災害派遣スタッフによる懸命な救助活動が行われているところですが現在のところ死傷者数も4万人を超えてきているとの事で、普段の生活に一日も早く戻れるように願うばかりです。
私は大地震と言えば1995年1月17日の早朝に起きた阪神淡路大震災と2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震を思い出します。阪神淡路大震災では、ビル・建物・家屋が倒壊し火事が起こり消火しようとしても建物の倒壊等で消防車両が現場にたどり着けない状況ではなかったでしょうか?その時、私はまだ25歳だったように思います。前日は地元の成人を祝う会に参加していて盛り上がり今から神戸へ行こうとしていた事を思い出します。結局は行かなかったのですが、もし出かけていたら間違いなく被災し今現在の私は居なかったのではないかと毎年の1・17慰霊の日が訪れる度に思います。当時はウインタースポーツブームで週末になると毎週のようにスキー場に足を運んで楽しんでいた事を思い出しますが、今主流となっているショートスキーやカービングスキーとは違い、長いスキー板に乗る事がカッコ良くてステータスの時代、日本全体が自然災害や防災に対しても無防備だったかと思います。実際、私自身は、1月17日の早朝に発生した地震、今までの経験ではない揺れで起こされ部屋の壁に立て掛けていた長いスキー板が布団の上に倒れてきた事を今もはっきりと覚えていますし、自然災害で本当に人命が失われると言う事を目の当たりにした時でもありました。防災に対する意識も芽生えた時でもあったのではないでしょうか。そこから自然災害はいつ発生するか?判らないと言う思いから災害発生時に利用できる防災グッズに興味を持って集めたり私の趣味の一つでもあるアウトドア!家族や友人と楽しんでいるキャンプに繋がっていっているのではないでしょうか?
最後になりますが私が人生の中で大切にしている言葉、教訓としている言葉があります。それは少し前まで活躍していた「ちゃんとせい」ではなく、「今日やる課題については今日、今すぐにやれ」と言う言葉です。
実際には中々出来ることではありませんが高校野球時代に先輩が教えてくれた言葉です。人は弱い生き物です、どうしても明日やりますとか、後でやりますと言う言葉で濁してしまうのではないでしょうか?
私の経験上、後でやる人はいないのです。
私は教訓としている言葉を大切にして今後の活動に活かしていきたいと思います。
2023年1月24日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局次長
(シャープ労働組合 堺支部)
満重 成祥
「この度、事務局長を拝命しました満重です。役不足ではございますが、精一杯頑張りますので宜しくお願い致します。」
謙遜の意を込めた挨拶として、このような言葉をよく耳にするのではないでしょうか。また、実際に話されたこともあるのではないでしょうか。しかしながら、この挨拶には間違いがあることをご存知でしょうか。
実は「役不足」という言葉の使い方に誤りがあります。辞書で調べてみると、役不足とは〈俳優などが、自分に割り当てられた役に対して不満を抱くこと〉〈その人の力量に比べて、役目が軽すぎること〉と書かれています。
つまり、「役不足ではございますが~」というのは、「私の実力からすると物足りない役目ではありますが~」と、不満を述べる言葉であり、全然謙遜していないことになってしまいます。ではどういった言葉を使うのがいいのかと言うと、「力不足」を使うのが正解となります。この言葉の違いを知っていれば、今後同様の挨拶を聞いたときに、この人は謙遜しているのか、していないのかが分かりますね。
誤った使い方がされている言葉は他にもあります。名刺交換をする時を思い返してみてください。受け取る際に「頂戴いたします。」という言葉を使っていませんか。実はこの言葉も誤りとなります。
そもそも「頂戴いたします」とは、〈もらう〉の謙譲語「頂戴する」と、〈する〉の謙譲語「いたします」が組み合わさったもので、謙譲語+謙譲語=二重敬語となり、文法的には誤用となります。正しくは「頂戴します。」といって受け取らなければいけません。しかしながら、名刺交換のマナーを調べてみると、「頂戴いたします。」と言いながら受け取るよう説明しているものがいくつも見られます。実際に使用している人も多いことから、誤用とは言えなくなってしまっているのかもしれません。
誤った使い方が一般的になっていると実感できる言葉として「失笑」があります。〈笑いも出ないくらいあきれる〉といった意味で使われていますがこれは誤りで、正しくは〈こらえきれず吹き出して笑う〉という意味です。普段の会話の中では誤った意味の方が一般的になっており、正しい使い方をすると逆に会話が噛み合わないことにもなります。
言葉を正しく使うことは大切ではありますが、一概にそうとは言いきれなくなっているのではないでしょうか。言葉は変化していくとも言われています。誤った使い方であっても、時代の流れや使用する人が増えることで、誤用が誤用でなくなり、正しい使い方に変わっていくのかもしれません。
※あくまでも私見であり、解釈に誤りがあれば申し訳ありません。
2022年11月17日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局次長
(泉南市職員組合)
原田 善弘
私は、自分が「厄介で面倒な性格」であるということを自覚している。
この「コラム」とやらを書かせていただくにあたり、正直、どんな文章を書けばよいのか?
これまでの人生の中で、夏休みの読書感想文は書いたことはあるが、「コラム」なんてものは書いたこともなければ、そもそも「コラムとは何だ?」という思考回路にスイッチが入ってしまう。
非常に面倒な性格が表れてきたな。と自覚し始めた頃、事務局から「どんな内容でも良いから書いてね。」とやや乱暴な投げかけをされたことへの反抗心を抑えながらネットで「コラム」について、検索してみた。
するとそこには、「新聞・雑誌で、短い評論などを掲載する欄、または文章。」とあった。
なるほど、短い評論文がコラムなのか? と分かった。
ところが、ここでも面倒な性格がまた邪魔をし、そもそも「評論」って何だ?といった「そもそも論」を持ち出す面倒な思考回路が働く。
自分でも嫌になる。実に厄介だ。
再び、厄介なのを承知で「評論」を検索した。
今度は、「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論じること」とあった。
なるほど、物事を批評し、論じることがコラムなのか?と分かった。
そして、批評し論じる物事を何にするか?という結論に行き着いた。
いつになく、本当にまじめに考えたが、正解と思える粋な答えが見つからない。
困った挙句、前例踏襲といった悪癖が身についている私は「じゃぁ、皆さんのコラムを読んで参考にしよう」という安易な発想に至り、拝読させていただいくことにした。
(あれこれ考えずに最初からそうすべきだったと後になって気づく)
皆さんのコラムを読んでいるうちに「そうかなぁ~」と、突っ込みを入れたくなるものもあれば、「そうだよなぁ~」と共感するものもある。なかなか「面白いじゃないか」と、つぶやいた瞬間、私の頭の中でコラムの題材(物事の価値)が決まった。
先人の方々には大変申し訳ないが、失礼を承知で今年度のコラムをいくつかのグループに分類して、私の独断と偏見による「評論」をしようと考えた。寄稿した方の意図と私の解釈に齟齬が生じている部分もあるかもしれないが、ご了承いただきたい。また、不躾ついでに次回作のテーマについても言及してみたい。
1,ストーリー性重視のグループ
森議長の男だらけの九州旅行のコラム。
バイクツーリングに夢中になっていた頃の自分と共通した部分も多く、被写体(森議長を探せ?)に昭和のノスタルジーを感じ、不覚にも次回作も読んでみたいと思ってしまった。ただし、写真を撮った女性は3人くらいであってほしいと願う。
次に中井副議長の三国志とゲームを通じた友達(同僚)とのコラム。
会話の臨場感や自責の念が上手く表現さてれおり、まるで映画のワンシーンをみているようで読み応えも十分。いつの間にか感情移入している自分に気が付いた。今年度中では一番のコラム。歴史・ゲームにまつわる次回作にも期待したい。
読んだ後、私が当初考えていたテーマ「侍ジャイアンツ・マカロニほうれん荘・機動戦士ガンダム(ファースト)」が私の人格形成に及ぼした影響に関するコラムを寄稿しなくて本当に良かったと胸をなでおろすことができた。ありがとう中井さん。
2,自身の経験を説くグループ
佐野副議長の震災準備に関するコラム。
同じ災害を体験した同志の言葉は胸に刺さる。コラムというより教訓として、より多くの人達にも災害に備えてほしい。ただ、政策要請に繋げてくるあたり佐野副議長の器用さ(あざとさ?)を感じた。
次回作は、人間味あふれるコラムをお願いしたい。
次に岸副議長の大切な家族を失って初めて気づくものがあると訴えたコラム。
まるで未来の自分に対して説いているのではないか?と思えるくらいの熱量を感じ取ることができた。私の知らない一面を垣間見ることができた。次回作は、是非とも「ダジャレの美学」に関するコラムをお願いしたい。
3,不器用なオヤジのグループ
平間副議長の真正面から「子育て」に立ち向かおうとするコラム。
父親として共感する部分も少なからずあったが、あまりにも不器用(説明下手?)すぎて、老婆心ながら心配してしまった。次回作も自戒の念シリーズをお願いしたい。
次に田中副議長の野党の不甲斐なさを嘆きながらも自身の立場から選挙からは逃れられないと若者を相手に愚痴っているコラム。
理由は謎だが、出会った当初から田中副議長の人間性(個性)に強いシンパシーを感じていた私(おかしい?)としては、田中さんらしさあふれる納得のコラムであった。次回作も引き続き「昭和のオヤジ」を表現していただきたい。
4,何かが足りないグループ
山下副議長の駅伝をほろ酔い気分で見ながら未来にタスキを繋いでいこうというコラム。
少し短めであったこともあり、半ば強引に駅伝(タスキ)と次世代(タスキ)と平和(タスキ)を繋いだのかなと感じた。残念ながら私が感じている山下さんの個性(優しさ)を感じることができなかった。次回作では、個性を全面的に表現したコラムをお願いしたい。
次に新型コロナウイルス感染拡大の影響によって顔を合わせた会議体やイベントができなくなったと嘆いている藤原事務局長のコラム。
多少、共感する部分もあったが全体的に何かの経過報告のような文脈であったので、残念ながら藤原さんらしい個性(酒好き)を感じることができなかった。
次回作は、今回の私のコラムに関するコラムを「短め」に評論していただきたい。
5,地区事務局長のグループ(このグループは次回作には言及しない)
山口事務局次長の男女共同参画社会という呪いような言葉に違和感を覚えながらも、労働の世界に身を置いていこうと決意したコラム。
共感する部分も大変多く、今後の山口さんの活躍を心から応援したい。
ただ、私はいつもの怒っているような表情ではなく、大阪南30周年記念式典の司会をした時の「裏声」を出していた時の表情が「大好物」であったので今後は後輩からも積極的に「イジられる」ような、肩肘張らない(頑張りすぎない。助言を受けとめ活用する)素敵な人(役員)になっていただきたい。
次に蛯原事務局次長の組合役員こそワークライフバランスができていないと訴えるコラム。
激しく同感する。
葛藤しながらも家庭との両立に日夜奮闘している蛯原さんを思うと四半世紀以上前になるが、労組上層部の運営方針(選挙対応)に納得できずに同世代の仲間と共に「青年部」を立ち上げようとしていた頃の自分に重ねてしまう。(妻には大反対された)
「これが正しい答えだ」といった成功モデルがあるわけでもないが、蛯原さんにはいつまでも「何事にも大勢に流されないための知識(自我の追求)と逆風に立ち向かう強い気持ち(反抗心)」をもった人(役員)になっていただきたい。
以上、私の個性を前面に出させていただいたが、いかがでしたか。
これまで私に関わっていただいた皆さんに対し感謝の思いを込めて辛辣に「評論」させていただきました。
私ごときが評論するなど厚顔無恥なことであることは承知していますが、私の連合大阪南地域協議会での最後の仕事がこのコラムであって、最終月を担当させていただいた者の特権だと思ってどうかお許し願いたい。
5年間、本当に貴重な経験をさせていただきました。本当にありがとうございました。
2022年11月1日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局次長
(日鉄建材労組大阪支部)
蛯原 博志
春闘の要求などでワーク・ライフ・バランスというワードを良く聞くがいったい何なのか、また、近年ではバランスではなくブレンドに変化しつつある。
調べによるとワーク・ライフ・バランスとは「働くすべての方々が『仕事』と育児や介護、趣味や学習、休養、地域活動といった『仕事以外の生活』との調和をとり、その両方を充実させる働き方・生き方」と定義されており、ブレンドは仕事とプライベートを切り分けずに1つのものとして捉えどちらも充実させていくと記されている。
私の年齢は30代後半で業務は現場技術職として働き、私生活では子供がもうすぐ2歳になる家庭を持つ環境において、ブレンドでは無く、ワーク・ライフ・バランスの実現に対して思っている事を書こうと思う。
高校の頃は、日々の授業と部活(サッカー)に加えアルバイトをしながらも青春の遊びはしっかり行ってきた。学生であったが、その時から働く事を基本に置きながらも、趣味や遊びを充実させたいがために忙しい日々を過ごし今の会社に入社した。
入社当初は仕事を優先にしてはいたが若さもありそこまで責任の圧が少なく、仕事が終わればすぐプライベートに切り替え友人や仕事の仲間などと遊び、仕事へのモチベーションを保っていた。
しかし、年齢を重ね30代に近づいていくと仕事も徐々に責任が重たくなり、私生活の時間も遊んでいた友人それぞれに家庭ができ、時間が合わなくなっていく中で、仕事仲間との交流がプライベートの主となり仕事の延長になりつつあった。
そういったアンバランスの頃に組合行事やイベントに参加する事で同じ仕事仲間だけではなく、外部の人と交流する機会を設けてもらい少しは息抜きができていた。
そういった中、組合の役員になり、家庭もでき、そして子供にも恵まれた。
以前はワークとライフが1:1でバランスが取れていたが、今となれば普段の仕事業務に加え、息抜きが出来ていた組合が業務に変化し、単組内・外部組合業務と家庭の子育てでバランスが取れているとはとうてい思えない。
子供は計り知れない体力で仕事の方が楽な時間と感じてしまう。
繁忙期や色々な行事が重なると家に帰る時間が遅くなり、暗くなった部屋に帰れば子育てに奮闘しきった家の荒れ模様を目にすると何とも言えない気持ちになる。
仕事に理解はされても労働組合という組織がわからない人には何を言って理解はされない。
組合役員の皆さんは組合員の労働条件を良くする運動が自らの家庭環境を悪化させていっている人も少なくないはずだ。
当たり前だが、家族の為に仕事はがんばらないといけないが、ふと思ってしまう色々な事を犠牲にしてまでこの労働組合の運動は何だ…と。
だが、これまで先輩方が築き上げてきた組合運動を繋いでいくこのような人生や今まで歩んできた道も全て自分が選んだ道だ。後悔などしたくもない。
今のような経験は誰もができるようなものでもないし、あらゆる可能性しかない子供の成長を見守るのも今しかできない事だ。楽しもう。しかし、これだけは書いておきたい。私の周りの方々は何事にもやりすぎだし出来すぎだ!自分の未熟さが痛感してしまう。もっともっとがんばらないといけなくなるので程々にしていただきたい。
ワーク・ライフ・バランスは自身のスケジュール管理だけは間違えずしっかり行いながら、どちらも人として成長し、自分なりに充実できるようこれからも“真”の実現に向けて突っ走りたいと思う。
2022年10月13日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局次長
(コーナン商事ユニオン)
山口 由紀子
男女共同参画社会と言われるようになって久しい。
でも男女共同参画社会って何だろう。
法律では『男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が平等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会』(男女共同参画社会基本法第2条)と定義されている。
果たして現実はどうだろう。私自身が女性であり、社会人になって早30余年、若い内は大して気にしていなかった「男女」のキーワードだったが、年を重ねる毎にこのキーワードに振り回されるようになった気がする。どこに配置されても女性初、女性としては何人目・・・
そもそも、前身となる男女雇用機会均等法が施行されてから50年になるが、そこから約20年後の私が高校を出るときには(年齢がばれますね)、女性はよほどの学力をもって将来の職業が見えていないと、いわゆる4年制の大学にはいかないものという暗黙の了解があったと記憶している。(私の学力不足は少し横に置かせてもらって・・・)進学しても短大や専門学校で20歳には社会に出ないと、いわゆる結婚適齢期(当時26、27歳くらいだったか)までに働く期間が短くなるので、就職先が見つかりにくいという理由だった。今や死語であろう「寿退社」もまだ普通にあった。
そこから時を経て運動の世界に入って十数年、この世界は会社よりももっとひどかった。どんな会議体に出てもほぼ毎回女性は私一人。女性初、何人目の・・・を連発された。そして公の場ほど、どこに行っても「女性比率○○%以上を目標に!」「○人中1人は女性の選出を!」いやいや、自らの意思はどうなった。
にもかかわらず、いざ役員を受けると、女性には無理だ。きっとできない。中には俺が結婚相手を紹介してやるから、早く家に入って子供を作れなんて人もいた。大きなお世話だ。懇親会に出れば女性は偉いさんの横に、と進められた。私はホステス役か。
私はこれらの出来事を悲観しているわけではない。あくまで現実。いつも卵が先かニワトリが先かの議論にはなるが、今後の男女共同参画、女性の活躍を見据えれば、参加率の目標は必要なのだと思う。今はまだそこから始める時なんだろうとも思う。私は役員としての前に一人の女性として、男女と言わずやりたい人を妨げず、やりたくない人に無理強いせずでいいのではないかとずっと思ってきた。活躍したい、頑張りたい女性に「君は女だから」なんていう必要はない。邪魔さえされなければいい。後は実力であってそれに性別はない。家に入って専業主夫したい男性に「君は男だろ」という必要もない。でもまだその時は早いのかもしれない。私は今期限りで連合の運動からは少し離れることになるが、立派な目標と活動計画のある連合大阪には是非労働運動のリーダーとして実績を残し、社会を引っ張っていただきたいと思う。
過去には、私よりずっと先輩の女性たちがもっと困難な中で、今の時代の礎となってくれていると実感しているし、今も先頭を走ってくれているリーダーの女性もいる。また、私のように意図せず、自分の意思とは関係なくやらざるを得ない状況にある女性も多いことだろう。私が現役の間には難しいかもしれないが、男女共同参画と言われなくなる時がゴールなんだと思う。私は決してロールモデルにはなれないが、少しだけ後輩の女性たちに足跡を残せるように、まだしばらく運動の世界で仕事をして行くことになりそうだ。
2022年9月10日
連合大阪南地域協議会 事務局長
藤原 一也
このコラムを目にしている方の最近の困りごと、悩みの種「ウイズコロナ」「アフターコロナ」。
コロナ禍から「ウイズコロナ・アフターコロナ」へ・・とマスコミやネットでは発信されています。政府も自治体も感染状況が治まらないにもかかわらず「行動制限はしない」と明言し新しいフェーズに、どう対応すべきなのか?発信はするけれども、答えはどこにもありません。
私たち労働組合の運動は、新型コロナウイルス感染症の蔓延で、集会・会議・総会等、民主的な議論形成に欠かせないイベントがリアル開催できない状況が続きました。
私が労働組合に役員として関わったのは32年前、このような経験はもちろん初めてで、取り組みができる方法を模索する日々でした。
連合は、様ざまな産別の仲間が集まる組織であって、顔を合わせての話し合いができない状況は危機的なものです。そんななかで、オンライン会議などWEB環境を活用しての議論形成の場は、皆さんの協力で継続することができましたし、研修会や交流イベントも併用開催ができるようになりました。
各小委員会にイベントごとに発足した実行委員会も参加者目線で企画・運営していただき、今年は、「首長との政策懇談会」「ユニオンセミナー」「女性交流会」がリアル開催できました。開催にむけた皆さんの思いや努力が「ウイズコロナ・アフターコロナ」の新しいスタイルを作っていくんやと実感した今日この頃です。
これからも共に悩み、足掻いていきましょう。
団結ガンバロウ!!
2022年7月22日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(神鋼鋼線工業労働組合二色浜地区)
岸 茂朗
縁というのは、人と人のめぐりあわせを表現する言葉だが、これは人間だけではなく人間と犬との間にも存在しているように思う。
うちの次男は小学1年生から空手をしていて、低学年の時はなかなか入賞せずに細々と空手をしていた。ところが、5年生の地方大会で優勝を果たし、めきめきと実績を上げ全日本大会で準優勝するまでに成長した。
初めての入賞した時の話。次男が「入賞したら猫を飼ってほしい」と言われた。
が、うちの長男や次女は猫アレルギーで飼う事ができないので、可哀想だがダメだと返事をした。それからというもの、動物が好きで飼いたいと思いながら月日は過ぎていった…
ある日、次男の通う道場の友達のお母さんから電話があった。
「公園で彷徨ってるワンちゃんがいて、警察署に保護されてるんやけど、飼い主見つからないと殺処分になるみたいで…どうか飼ってもらえないかな?」とワンコの写真付きメールが送られてきた。
早速、家族会議になり妻は飼うことに反対、子供たちは迷いながらも飼ってもいいかなと。
次男は「殺処分なんて可哀想やし面倒見るから飼う!」の即答であった。
実は、写真を見ると飼育放棄されたのか、毛が伸び放題で顔も見えないくらい毛が顔にかかっていた。片目も白く濁っていて白内障になっており、股関節も脱臼し片足が悪く年齢も10歳を疾うに過ぎている高齢犬だった。長い間、シャンプーもされておらず、臭いも酷いものだった。
妻は、高齢だし医療費もかかって病気ばかりするし犬も飼ったことないから大切にできるか自信がないと一点張りだったが、なんとか説得し迎え入れることとなった。
次男が警察署に迎えに行き、共同生活が始まった。
まず連れて帰ってきてから、病院へ直行。病気がないか色々と検査し、さいわいにも皮膚がマラセチア感染し炎症をおこしているだけで、のみ、ダニなどの感染症もなくほっと安心した。犬種もアメリカンコッカースパニエルという事が判明した。
家に帰り、シャンプーし、カットすると見違えるように白くなりきれいになった。
次男が連れて帰ってきたからか?!帰ってからというもの、次男にべったりでほかの家族に寄り付かない状態であった。
そのワンコの名前を”ピース”と名付けた。名付けたのはもちろん次男である。
ピースとは平和を表す言葉だが、今まで苦労してきた分我が家にきてたくさん幸せになってほしいとの思いで名付けた。
ピースが来てからというもの家の生活がガラッと変わり、みんなピースにベッタリになったのは言うまでもない。
ピース中心の生活になり、家族の話題も増え賑やかになった。
ピース自体も初めは心を閉ざし、次男にしか懐かなかったが次第に心を開き家族みんなメロメロになった。あんなに反対していた妻がびっくりするほど一番メロメロになり、可愛がりようといったら半端なかった。
これは関係しているのか分からないがピースが来てからというもの、次男は空手で大会入賞を毎回果たし、全日本大会でも準優勝し国際大会では第三位。妻も看護師国家試験に合格、長女も志望校に合格した。ピースは神様の贈り物なのかなと、まさしくラッキー犬である!
ピースと一緒に四季折々を過ごした。春は花見や釣りへ出かけ、夏は川遊びや、花火大会へ行き、秋はハロウィンパーティーで仮想し、冬にはカウントダウンにも行った。
旅行も3年間に3回一緒に旅行することができ、数えきれないくらいたくさんの思い出ができた。
もうすぐピースが亡くなり1年になろうとしている。
うちに来て8月で3年になるなーという手前、7/26に腎不全でなくなってしまった。
それまで、膵炎になって入院したが元気になったので、今回も元気になって帰ってくると思ったが高齢でもあり持ち直すことができなかった。
呆気なくピースは逝ってしまった…。出会いも突然だが、別れも急だった…。
ピースには、うちに来てくれたことに感謝している。これも何かの縁だと思う。
兄弟喧嘩している時はやめろと間に入ってきたり、悲しいときは大丈夫?と近くに寄り添いにきたりと、気持ちを理解できる優しい子だった。犬であるが人間みたいな心を持っていて、誰にでもシッポを振って寄って行く人間好きな子だった。
今は、ピースが居なくなってさみしくなり絶賛ペットロス中である。
ペットを飼ってる人へ伝えたい。
当たり前の日常を毎日、大切に過ごしてほしい。
人間より年を取るスピードが速く誰よりも年を取っていく。衰えていく姿から目をそらさず、最後の最後まで見守ってほしい。一緒に居れる日は短いことを忘れず今をたくさん楽しんでほしい。
2022年7月14日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長(大阪ガス労組泉北支部)田中 政和
輪番でコラムを投稿することになり、7月が当番「う〜ん、参院選のことやなぁ」ということで、参院選についてわたしの感じたことを。
一番印象に残ったことはやはり元首相が襲撃されるという衝撃的な事件があったことですね。安倍さんは連合の仲間が応援した方ではありませんが、首相としての在職期間が歴代1位であることからしても、この国を背負った偉大な政治家であったと言わざるを得ませんし、わたし自身そう思います。いまはただご冥福をお祈りいたします。
そんな中、この事件が選挙に影響したか否か?アンケートではおよそ8割の方が少なからずも含め影響したと回答されていました。ではこの影響は自民党の圧勝に寄与したのか?いや決してそうではないんじゃないか、自民党が有利になったようには感じませんでした私は。この事件がなくとも自民党の圧勝!というより野党の惨敗が目に見えていた方も少なくないのではないですか?私と一緒で。
大阪は第25回と同じ議席獲得でした。得票数を見れば、立憲・国民統一候補であっても何らかわりない中、それぞれ候補を擁立したことは比例票UPのためなのかなんなのか明確なものは示されず?いつも通り維新に惨敗したわけです。結局、支援するわれわれの気持ちはバラバラ、前回の反省が活かされているとは思えない状況でした。
今回に限らず、最近では支援する候補者が当選できない選挙が増えてきました。個人的に投票する候補者がいない組合員は、組織から推された候補者を応援する中で、その方が落選したとき、「次こそは!」と投票してくれるのでしょうか?選挙があるごとに組合員の投票率が支援が、下がっているような気がしてなりません。だからといってわたし自身「もうええわ」というわけにはいきません。
20歳になり選挙権を得てから、投票用紙をいただいたすべての選挙に参加してきました。正直、労働組合に携わっていなかったら、ここまで選挙に関心はなかったんではないかと思いつつ、さらに選挙への想いが強くなった50歳の夏でした。
おわりに、今では選挙権も18歳からとなりました。18歳で得た権利を行使せず、20歳ではしっかりお酒とタバコを始めるといった若者が増えないように願っています。
(言いたいことをダラダラと・・・これってコラムというよりエッセイってやつですかね、次回があれば自分の好きなことなどについてのコラムを投稿したいと思います。)
2022年6月7日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長(堺化学労組)平間 明弘
齢48にして2歳の娘がそばにいます。
コラム執筆の要請を受け、娘のことを少し書き記してみようと思う。
遅くに生まれた子だからか少し男性の一般的な育児談議が自分に当てはまらないことが多いことに、やや傷つく。
とは言え、同じ子どもなのであまり気にしないようにしようと努めている。日常的には、笑いの連続だし、そうありたいと常々思っている。
2歳というところで、一般的には「イヤイヤ期」と言うらしいが、気にしない。 ダメなことはダメ、しないといったことはしない、を徹底している。なので、妻は気にしているようだが、私自身は全く気にしない(気づいていない!?)
どうしたら子供に好かれるかみたいな質問や意見が来ることが極まれにある。答えは簡単で、余すことなく大人の力(お金)を見せてやればホイホイとついてきます、と回答している。
ただ、着いてくるだけですけどね、とも付け加える。
自分は、育児に自信がある訳でもなく、何か成功したわけでもないが、一つ自信を持って言えることは、振り返って説明できる人生であったと子供に伝えられるという事だろうと思う。
自分の栄光だけでなく、落ちぶれたときの話も含め自分事として子供や身近な人に話が出来て自分を見つめることができると思っている。その意味では、子育ては想像以上に大変だが、大変だと思う事を凌駕する以上の成果は挙げられるのではないかな、と思っている。
これまで、女性の仕事との認識が強かった育児また介護についても男性諸氏は積極的に学ばないと席を明け渡すことになってしまいますよね。
自戒込めながら・・・
2022年5月15日
大阪南地域協議会 副議長(JP労組泉州南支部)山下 一房
時計の針を少し戻し、2021年1月2日、3日の第97回箱根駅伝。
東京・読売新聞社前〜箱根・芦ノ湖間を往路5区間(107.5Km)、復路5区間(109.6Km)の合計10区間(217.1Km)で競う、学生長距離界最長の駅伝競走です。
ご存知の通り母校の思いが詰まったタスキを繋いで行くのですが、倒れ込んででも繋ぐ必死さ、最後まで諦めない選手たちの姿を見て幾分年も取ったせいかとても感動し、また、普段から愛飲している白鶴〇〇が進んだせいか涙腺も少し緩んでいました。
一方で、そこまで必死になることが最近あるのかなと自分自身にも発破を掛けられているような、そんな風にも感じました。
現在、単組でも役員の後継者を育てるのに大変苦労をしているところですが、特にこのコロナ禍の中、組合員、その家族の方の生活を守って行くためにもやはり組合運動は止めることは出来ません。先輩方が培ってきた思いのタスキを、しっかりと次世代に繋げて行く使命が現役の我々にあると改めて感じているところです。
他方、世界に目を向けるとウクライナ、ミャンマー、アフガニスタン等、様々な情勢が懸念されています。我々大人としても子供たちのため、未来のため、平和のタスキも繋いで行かねばと強く感じます。
我々が出来ることを少しでも少しでも・・・。
ふと、テレビに目を向けるといつの間にかレースも終盤戦、白鶴〇〇も残り僅か。まさかの駒澤大学の大逆転劇に画面に釘付けです。各校ともゴールと同時に来年へのスタートが始まり、母校のタスキが繋がれます。
嬉し涙、悔し涙に濡れた思いのタスキはきっと洗っても洗っても落ちないんでしょうね。
2022年4月12日
大阪南地域協議会 副議長(JAM栗本鉄工所堺工場労働組合)中井 誠
最近、私がささやかな楽しみにしているのが、日経新聞夕刊に連載されている「諸葛亮」(宮城谷昌光:著)です。ご存じない方もいるかと思いますが、諸葛亮しょかつりょうとは、「三国志」に登場する軍師であり、後年、三国の一つ蜀しょくの建国に功績大で、宰相(今でいう総理大臣)になる人です。三国時代後半における主人公の様な人物で、書物によっては天才軍師として描かれていたりします。その清廉潔白で公正無私な人柄、主君・劉備りゅうびやその息子で暗愚な劉禅りゅうぜんにまで忠義を尽くした生き方から、恐らく三国志で最も人気のある人物の一人だと思います。
実は何を隠そう、私は歴史が大好きで、日本史は無論、特に中国の「三国志」がとても大好きです。「三国志」との出会いは、小学生の頃、友人宅にお邪魔した時、本棚にマンガの「三国志」(横山光輝:作)がズラッと並んでおり、何気なく手に取り読んでみると、これが面白いではないか! 中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃~280年頃)の興亡史であり、魏ぎ・呉ご・蜀しょくの三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書である。見開いたマンガ本では、後漢の世が乱れ、黄巾賊こうきんぞくの乱が各地で勃発し、その様ななか劉備、関羽かんう、張飛ちょうひの3人が桃園において、『我ら、生まれた時は違えど、死ぬ時は同じ時を望む!』と、義兄弟の契りを交わす桃園の誓いが描かれていた。劉備は後に蜀の初代皇帝になり、関羽と張飛は一騎当千の猛将として、「三国志」を代表する豪傑に成長する。
「三国志」の魅力は、先の4名だけでなく、個性豊かな英雄・豪傑・知将・愚将・凡将・美女・名医・あげくは仙人まで登場し、彼らが知略・武勇の限りを尽くし、自分の信条や野望、支える主君のために戦い、様々な人間ドラマを織りなし、そして次々と志半ばで倒れていく(死んでいく)ところにある。皆、人間だから、いずれは死ぬのが当然だが、映画やドラマなら、死んだはずだった人が、実は生きていた!なんてことは時々ある展開だが、「三国志」ではそんなことは起こりません。
劉備の敵役として描かれ、後に三国で最も大きな勢力を持つ魏の国の礎を作る曹操そうそう、義父を殺め、裏切りの連続を繰り返す「三国志」最強の異名を持つ呂布りょふ、都で悪逆・横暴の限りを尽くして最後に義理の息子呂布に斬殺される董卓とうたく、後漢で数多くの大臣を輩出した名門袁一族の兄弟(異母兄弟だが)袁紹えんしょうと袁術えんじゅつ、劉備から三顧の礼をもって迎えられる諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい、その孔明に可愛がられたが作戦失敗の責任を取らされ『泣いて馬謖ばしょくを斬る』の故事にもなった馬謖、董卓と呂布の仲を離間させて呂布に董卓を殺害させた絶世の美女貂鮮ちょうせん、などなど、とてもここでは紹介しきれないくらい個性的・魅力的な人物がきら星のごとく登場します。
友人からそのマンガ本を借り、貪るように読みふけり、私はすっかり「三国志」の世界に魅了されました。以降、学校の図書館で「三国志演義」や、吉川英治、陳舜臣などが記した「三国志」を借り、コーエー(当時は光栄)の歴史シミュレーションゲーム「三國志シリーズ」にもハマりました。
そんなある日(今から20年ほど前)、私の職場にA君が異動してきました。彼は、工場の製造部の現場で働いていましたが、眼の難病を患い、製造部のスタッフ部門へ配置換えになりました。A君とは年が近いこともあり、私が彼に仕事を教えることになりました。
A君はそのとき既に、パソコンのモニター画面に顔を20cmほど近づけないと、文字が見えないぐらいまで、視力が低下していました。こんな状態ではとても危なくて、製造現場での作業はできません。A君は現場にいたとき、エース級の人材で、これからリーダーとして職場を引っ張っていくはずの人物でしたが・・・
A君が来てほどなく私は、「良かったら今度、二人で飲みに行けへん?」と、A君を誘いました。「病気の進行を抑える薬を服用してるから、アルコールは飲まれへんけど、それでも良かったら」と。工場最寄り駅近くの居酒屋に入り、仕事の話やこれまで居た職場のこと、プライベートについてなど色々と話をしているなか、光栄のシミュレーションゲーム「三國志」が互いに好きだと分かり、大いに話が盛り上がり、時を忘れて語り合いました。これを機に二人の距離は一気に近くなり、お昼休憩のときなども、二人で「三国志」やゲームについて語り合い、趣味を共有する同志として親密感が高まりました。
しかし、そんなA君との日々は、長く続きませんでした。彼の視力はさらに低下していき、パソコンのモニター画面に額がくっつくのではないか、というぐらいまで近づかないと文字が見えなくなっていました。しばらくして上司より、A君とご両親の方から、退職したいという話があったと聞かされました。
出社してきていたA君に、
「これから、どうするの?」
「治療は続けるけど、治す薬や方法は無いから、見えなくなっても、何かできる仕事をやろうと思っている」
「・・・見えなくなっても、できる仕事って?」
「以前、中井君が居酒屋で、目の見えない人が就いている仕事に按摩(あんま:あん摩マッサージ指圧師)があるって教えてくれたので、それを目指そうかと思ってる」
「えっ!」(オレが何気なく言ったことを、本気で捉えたの?)
「国家試験に通って、資格を取らないといけないから、なれるかは分からないけど。
それと、オレにはもう必要ないから、「三國志」のゲームソフトやゲーム機本体を貰ってくれへんかな?」
「えっ! 大事にしている物やん。手放さなくても、手元に置いとけばええやん。」
「いや、もうええねん。たぶん・・・・・、もうゲームをすることは、できへんと思うから・・・・・・・ イヤでなかったら、中井君にもらって欲しいねん。」
「・・・・・・・、そう・・・・・、分かった。A君がそれでイイなら・・・。ありがたく頂戴するね」
「オレの分まで、楽しんで」
A君の表情には、一抹の寂しさと、割り切った諦めに似た表情が入り交じっていたように見えた。衰えゆく視力のせいで、大好きな「三國志」ゲームを諦めなければならない彼の気持ちを想像すると、いや、ゲームどころか、彼は仕事や人生においても多くのことを諦めざるをえなかった。そのことに改めて思いを巡らせると、やるせない気持ちとA君の無念さに心が張り裂けそうになった・・・
A君は会社を去っていき、その後は付き合いが無くなり、無事あん摩マッサージ指圧師になることができたのか、どうか。理論や実技を習得したうえで、国家試験に合格しなければならないので、決して簡単ではないはずだ・・・ 気になるところだったが、自分から連絡を取ることは、ためらわれた・・・
自分の何気ない些細な一言で、新たな職業を選ばせてしまい、人生の進むべき方向に影響を与えてしまったことに、怖さと申し訳なさを感じた。
A君から譲り受けたゲームは、もう今ではほとんどすることは無くなったが、「三国志」にまつわる作品や記事などを目にするたび、A君のことを思い出す。
ゲームをプレーすることはなくなったとしても、中国の大平原を縦横無尽に英雄・豪傑・知将たちと共に駆け巡り、乱世を統一する果てしない夢をA君もきっと心の中で、自らを主人公にして見続けていることを願っている。
「三国志」を愛する一人の同志として。
2022年2月24日
大阪南地域協議会 副議長(泉南市職員組合) 佐野建也
皆さんは震災に対しての準備はされてますでしょうか?
という私もほとんど準備をしていない部類に入ります。東日本大震災から11年が過ぎ、ある調査(被災地居住者また居住歴がある方とその他主要都市居住者の20歳以上の男女500人を対象)では、被災地居住者・居住歴者は67%が備えをしていると回答しましたが、その他主要都市居住者(大阪府含む)は51%が備えは出来ていないと回答したそうです。約1年前の調査ではありますが、現在もあまり変わってないと思われます。
昨今各地で地震や大雨の被害が頻繁に起こっています。地震ならば、震度3は日常的な感じであり、大阪府北部地震(2018年)のように震度6弱や震度5というような大きな地震も発生しています。大雨ならば、一昔前は台風の影響が大きかったと思いますが今では、線状降水帯なるものが出現し、各地で大きな被害を起こしています。
その中でも私が経験した自然災害により身の危険を感じたのが、2018年9月に上陸した台風21号でした。この台風は、雨はもちろんですが、強風被害が相当出ました。家屋の瓦が飛び、農業用の小屋をなぎ倒し、市の施設の屋根までも飛ばされる状況でした。私も事務所からその状況を見ていましたが、事務所前道路の電柱では火花を散らしながら電線が切れ、その瞬間事務所が停電となり、その後、目の前にある中学校の屋根が次々と飛んでいきますが、成すすべなくただ呆然と見ている事しかできず、自然の力をまざまざと見せられた瞬間でもありました。
強風が落ち着いた後、現場に出ましたが、その影響は大変なものでした。特に全国ニュースにも取り上げられましたが、電柱9本が倒されていたのにはかなり驚きました。そのような中、飛び込んできたのが関西空港への連絡橋に強風で煽られたタンカーが衝突し、道路・鉄道ともに使用できなくなり、また滑走路は高潮による冠水で閉鎖状態という事でした。まさに陸の孤島となっていました。その時点では関空島におられた方が約3千人との報道でしたが、私自身その報道を横目で見ながら市内の対応に奮闘していました。二週間程度でようやく落ち着いた頃には、関空での救出が無事完了した事、橋の復旧方法等が話し合われる状況までになっていました。この時は「皆さん救出されたんやな〜。」「技術屋として橋どう直すのかな〜」という感じでした。
その後、時間は経過し台風上陸の翌年6月に泉南地区協で開催した「自治体政策・制度予算要請の策定に向けた議員懇談会」にて役員OBからこんな要望も必要ではないか?という事を言われました。何かというと関空島が孤立した時の話でした。実はあの時、関空島には約8千人程度が取り残され、その中には当然関空島内で日夜働いている労働者の方々も含まれていました。その方々の安全確保等ができていたのか?またその対応方法が事前に検討されていたのか?が疑問であるとのことでした。
私としては、実際横目で見ていた事象であった故にそこまで深く考えていなかったことに気付かされ、それは非常に大事なことであると思い、たまたまこの時の発表者に選出されていたため、関空の一件も含めて発表させて頂きました。その後、本件の取り扱いについては大阪南地域協からの要請とし、「関西国際空港への非常時のアクセス手段の確保について」という要望事項で採用されることとなります。各自治体から関西エアポート㈱に対し「防災業務計画の見直し」や「非常時のアクセス手段の確保」などを要請頂きたいとの主旨でした。
昨年(2021年)8月に目にした記事には災害から3年、10月には関空島の防災対策工事がほぼ完成とあり、空港内に1万2千人が取り残される事態を想定した新しい事業継続計画(BCP)も策定されたとの内容でした。ただ、そこには空港内労働者の安全確保等が図られているかどうかの内容までは記されていなかったため、これからも更なる要請行動は必要であるのでは?と感じた記事でした。
「天災は忘れた頃にやってくる」
冒頭にも書きましたとおり、個人でも組織でも災害のための準備は、明日やろう。ではなく、可及的速やかにやろう!という思いを持たなければと、自分に言い聞かせる今日この頃です。
2022年2月7日
大阪南地域協議会 議長 森 義仁
昔々の20歳半ばの話である。決して女の話ではない。趣味と言えるか?好きな事を気ままにしていたような気がする。今回は車での旅のお話。
私の相棒の車、ハイエースのワゴンで日本全国九州から北海道まで自走した。当時、今みたいにカーナビが無い時代、日本道路地図、あの赤い本を見て盆休みの長期休暇を利用した旅である。メンバーは中学校からの悪友、高校時代のバイク仲間、同じ高校の友人、男4人の旅である。
基本、宿泊は1BOXの座席をフラットにし車中泊、4人が限界。旅の恥は掻き捨ての精神で観光名所を周る。今回は九州一周の旅の始まりである。
いざ出発!目標を設定する。この旅で何人の女性と写真を撮るか!(若かった)
夜、大阪を出て中国道をひた走る岡山から広島にかけて対向1車線も長かった気がする。ひた走り最初に訪れた観光地が山口県秋吉台鍾乳洞である。山口県に寄った理由はただひとつ、女に会うためである。GWに四国一周のツーリング行った足摺岬で知り合った山口県の女性二人組である。当時は記念写真を撮り住所を聞き写真を送る。電話番号も聞く。携帯が無い時代、よく再会ができたと今に思う。
余談になりますが、スキーに行った時も良くこの手を使い記念写真を撮った。と言うかスキーは自慢ではないが上手かったので向こうからの声掛けも多かった。
大阪に帰ってきて、今で言う居酒屋で合コン。実際、高校の時に白浜ツーリングやスキーで知り合った女性と大阪で再会しカップルやゴールインしたのも少なくない。(私でない)
当時はカメラ小僧だったのでミノルタα7000一眼レフで交換レンズも3本、レンズフィルター複数枚に専用ジュラケース、当時、少し凝っていた。
長崎での昼食は町の中華屋さん。メニューを見るとやはり有った長崎名物「ちゃんぽん」に「皿うどん」麵類大好物最高。ちゃんぽんを食った。大阪では食べたことのない太いストレート麵(ちゃんぽん麵)でトッピングに生玉を真ん中に、今までで食った中で断トツNO1ちゃんぽんとなった。残念ながら今では店の場所名前が記憶にない。行きたくとも行けないのが残念である。
夕食を済ませた後はご当地の温泉巡りを楽しむ。長崎から雲仙へ移動。雲仙の温泉は白濁の湯で強烈な硫黄の臭いと大量の湯の花。湯の花を体に刷り込ませたこともあり身体に染み込み、硫黄臭さと男4人の男臭、車の中は何とも言い難い臭いが・・・特に硫黄臭い!
トイレのある駐車場に停め就寝。当時はみんなあまりお酒を飲まなかったので宴会にはなりませんでした。
目覚めと同時に出発、目的地の九州最南端、佐多岬を目指し車は走り出す。
さて、何人の女性と写真を撮ることができるのか・・・皆さんも予想して下さい。
続きは次のコラムで・・・