2014年7月21日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(ダイベア労組中央執行委員長)
牟田 和広
2014年7月18日(金)18:30から、連合大阪主催の平和行動 学習会が開催されました。連合として重視し、長年続けている広島・長崎での平和行動への参画事業の一環として行われたものです。私は、どちらの平和行動へも参加を予定していませんが、たまたま受けてみようと思って、学習会に参加しました。
連合大阪の久保さんが司会を務められ、はじめに連帯活動委員会の川北委員長より主催者を代表して挨拶がありました。
第一部として、大阪女学院大学の教授である黒澤 満(くろさわ みつる)様から「世界の核兵器の現状と廃絶への取り組み」と題した講演がありました。米ソ冷戦時代をピークとして、着実に減ってきているものだと、漠然と考えていた核兵器ですが、その総数は1万6千発を超え、未だに全人類を幾度も死滅させるに充分な数であると聞き、正直驚きました。特に、二大核兵器保有国においては、30分以内に発射可能な核兵器が、アメリカ:1,920発、ロシア:1,600発もあるとのことでした。
黒澤教授は、これまでの核軍縮を継承しながらも、新しいアプローチを提言し、廃絶に向けた具体的なビジョンを示してくれました。特に私が気になったのは、喫緊の課題としての「核兵器の警戒態勢解除」についてでした。上記で示した、即発射可能な核兵器をゼロにすることで、人為的ミスやシステムエラーによる誤射を防ぎ、核兵器の脅威を低減させる有効な手段です。しかし、その為には「核の傘」、つまり「核兵器が戦争の抑止力として有効である」という考え方を見直さなければなりません。この点についても黒澤教授は、「核兵器が抑止力として機能した事実はない。アメリカによる様々な戦闘行為も、保有する核兵器によって回避されたことはない。」と指摘されました。現に、アメリカ大統領であるオバマ氏は、立候補した時から核軍縮を提唱しており、今も大統領としてその目標を掲げているとのことでした。そんな中、アメリカの核軍縮を阻んでいるのは日本だという驚くべき話がありました。日本の政府・高官が、アメリカの「核の傘」に守られているという古い意識を強く持っているため、アメリカの野党議員が「日本のためにも核兵器は必要だ」と利用し、核軍縮を阻んでいると言うのです。また、民主党政権下では岡田外相と協力し、「核の傘」に対する意識を変えようと試みられていたとの事でした。私達は、メディアによる扇動であると知りながらも、民主党による政権運営の失敗から、ダメな政党だというレッテルを貼ってきましたが、少なくとも政権交代に意義はあったのだと認識を新たにしました。核軍縮、核兵器廃絶のために、私達ができることは、志のある人を選び、選挙権を行使することにあると改めて理解しました。
核兵器の脅威を改めて理解すると共に、自分達の現状を認識し、未来を考える良いきっかけになったと思います。
第二部は、広島県原爆被害者団体協議会理事長の坪井 直(つぼい すなお)様から「被爆体験から」と題して、ご自信の被爆体験談をお話いただきました。
こちらは、第一部の講演と違って、文書にはし難いものでした。広島原爆の1km圏内で、当時二十歳で被爆されたご本人が、目の前で語られる体験談は、すさまじい臨場感と、圧倒的な現実感を持っており、気の弱い方には眠れなくなる程のインパクトを与えたのではないかと思います。しかし、そのどれもが事実である以上、やはり世界で唯一の原爆被害国である日本の存在は、とても大きなものであると知らされました。
「最近、日本で起きている陰惨な事件には本当に腹が立つ。人の命を奪うという事において、テロも戦争も原爆も同じだ。バカヤローと言ってやりたい。」きっと、その場にいなければ伝わらない、本当の意味での言葉の重さが、そこにはありました。
御年八十九歳の坪井様が、被爆による様々な身体の不調を背負いながら、今も原爆と闘い続けているその姿には、感動を覚えると共に、心から尊敬します。
来年、戦後70年を迎える我が国日本。ともすれば形骸化しかねない広島・長崎をはじめとする平和行動。しかし、今こそ日本が成すべき事、日本だからできることを再び見つめ直し、日本国民として世界平和に対して、その責任を果たしていかなければならないと、改めて認識させられる学習会でした。
2014年4月30日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(ダイベア労組中央執行委員長)
牟田 和広
4月27日、東日本大震災の現状をこの目で見るため、福島県いわき市に向かった。仙台など、福島第一原発より北側の地域には何度か行ったが、南側の地域を訪れるのは初めてだったので、被災された方々への追悼の想いと共に、復興の現実を見られる事への期待感があった。
大阪から出発し、西名阪、伊勢湾岸、東名、首都高と高速道路を乗り継ぎ、常磐自動車道に入る。現在の終点となる常磐富岡インターチェンジ(以降、ICと表す)は、2014年2月に広野ICからの区間が再開通したばかりだ。終点の常磐富岡ICの降り口手前には、「放射線量 2.90マイクロシーベルト/h」という表示があり、見えない脅威が確かにあることを静かに示していた。ICを降り、信号を左に曲がって少し進むと、検問が見えた。車を寄せて停めると、「通行証を拝見します。」と言われた。「観光ですので…」と言うと、「そうですか。ここから先は帰宅困難区域ですので、一般の人は入ることができません。ユーターンしてください。」と丁寧に説明された。「すみませんでした。」と言って、指示通りユーターンする。プレハブが4戸ほど建ち、多くの人が立っているだけのその場所には、目には見えないが、確かに境界線があった。
ユーターンした後、当初の予定通り「浜風商店街」を目指すこととした。先ずは、海岸沿いのメインルートである国道6号線を目指した。しかし、その道中で衝撃的な風景を見ることになる。東北の片田舎のこと、町と言える程住宅が密集しているところはないが、数戸単位の集落は点在していた。しかし、そのどれにも人影は無く、生活感がない。店舗のカンバンは剥がれ落ち、ガラスは割れたまま。まるで、時が止まったかのように。人が決めた帰宅困難区域という境界線の外、一般人が普通に入れる地域に、とてつもない違和感と共に、それは確かに存在していた。
国道6号線に入り南下すると、ホームセンターの駐車場など、大きな空き地に、除染作業で取り除かれたと思われる土の袋が、何十、何百と積み重ねられ、放置されていた。福島第二原発の横を通り、さらに南下すると、「Jビレッジ」が見えてきた。サッカーのクラブチームのホームグラウンドとして建設されたこの施設は、現在福島第一原発への対応拠点となっている。作業員を乗せるためだろう、空のバスが何台も北上して行く。
さらに南下して行くと、コンビニもあり、人影が増えてきた。やっと「浜風商店街」に到着だ。「浜風商店街」とは、いわき市久之浜にあったお店の人達が集まり、久之浜第一小学校の校庭の一角に仮の店舗を建設した同地域の復興のシンボルだ。店舗内の食堂で昼食を済ませ、他のお店をのぞいていると、ひとりの女性が声をかけてくれた。大阪から来たことを告げると、喜んで自らの体験を話してくれた。
「あの日、突然大きな地震に襲われた。慌てたが、ガラスの処理などを考え、軍手をたくさん抱えて外へ出た。その時、ボリュームを大きくしていたテレビから“6mの津波が来るから逃げろ”との声が聞こえ、軍手以外の何も持てないまま逃げた。津波が去り、片付けに行こうとしたが、火災で家は焼失し、着の身着のままの避難生活が始まった。チンするご飯を冷たいまま食べ、顔を洗うことさえままならず、足をぶつけ合いながら寝る日々が続いた。今はこうして商店街もできたが、がんばろうなんて言える歳でもなく、みんなと元気に日々を暮らしている。富岡は見ましたか?復興なんて何も無い。あの時から時間が止まっているでしょ。元の場所に店舗も建てたいが、東京オリンピックで資材も高くなる。被災地の現状を、もっと良く知って欲しい。」
女性と別れの挨拶をし、店舗があった地域を見に行った。新しい防潮堤の建設が進み、無数のテトラポットが並んでいたが、立て替えられたのだろう新しい家がポツポツとあるだけで、地震・津波・火災の傷跡は未だに癒えていない。
テレビのニュースで「復興は進んでいない」と聞く。だから、復興は進んでいないのだと思っていた。しかし、今回の旅で「復興とは何だろう」と考えるようになった。地震や津波や火災で失われた家を、元通りにすることが“復興”なのだろうか。確かにそれも重要だ。しかし、家さえあれば、本当に人々は戻ってくるのだろうか。あれから3年以上が経ち、東日本大震災を意識することも少なくなり、「経済や産業のためには一部の原発再稼動もやむなし」なんて安易に考える時もあるが、本当にそれで良いのだろうか。
私達は、あの時、あの瞬間に、大切な何かを忘れてきたのではないだろうか。
2014年2月27日
連合大阪南地域協議会 役員OB会
鎌倉 幸信
昨年11月の連合大阪南地域協議会総会にて、連合堺高地区よりスタートした16年間の連合地域役員を卒業させていただきました。この間いろんな経験をさせていただきましたし、先輩諸氏に連合役員としての心構えなどを、教えていただきました。その中から、ふたつ紹介いたします。
ひとつは、堺高地区の役員選考委員長でのことです。議長や事務局長をお願いに各単組・産別にお伺いした時に、先輩に云われました。「鎌倉君、連合の地区の幹事役員は全員、出身単組のトップに出てもらいなさい。執行委員では、一旦持ち帰り、委員長の意向を確かめてからになり決定が遅れる。行政や各団体に対しても、地区のトップばかりの幹事会であるということが、連合の地位を上げることになる。それが堺地区の労働団体が培ってきた労働運動の伝統である。」このように教えられ実践してきたつもりです。
トップばかりの会議で、一番記憶に残るのは、民主党と自由党が統一して、初めての衆議院選挙の候補者推薦でありました。堺選挙区は党中央の決定した候補者でしたが、過去に労働界とは因縁のある方でした。連合大阪は大阪南地域協と堺地区協で推薦の可否を相談してくれとのことでした。大阪南の三役会で、ある産別代表から「組合員に説明できないから、いち抜けさしてくれ」といわれました。事務局長の立場として、たいへん苦慮いたしましたが、他産別の委員長が、「三役会は一枚岩でなくちゃならん。個人の好き嫌いで決めるんじゃなくて、大局的に見て統一見解を出そう」との意見が出され、連合として推薦の方向が決定いたしました。民主党の躍進のスタートでありました。
次は首長との関係であります。連合は、制度政策要請を各自治体へ毎年提出しますが、その際は、首長との懇談を併せて行うのが基本方針であります。常日頃から、首長との信頼関係を築く努力も必要です。大阪南の事務局長の時代に、議長から教えられたのは、「連合の議長・事務局長は、いつでも電話一本で市長に会いに行けるようにしときなさい」ということでした。このことは今も、各地区では実施されているのではないかと思います。
また、連合推薦をした首長候補は、大阪南が責任を持って、産別本部へ挨拶に連れて行くという方針が、信頼関係を築いてきたと思っています。
今回は、手始めに振返りをさせてもらいましたが、役員OBとして機会があれば、またコラムに投稿させていただきたいと思います。
2014年2月14日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(ダイベア労組中央執行委員長)
牟田 和広
ベアリング(軸受)は、自動車や機械の回転する部分に必ず入っている部品で、「産業の米」とも呼ばれています。特に、省エネが重要視される現代では、回転におけるエネルギーロスを少なくすべく、スムーズに回るベアリングが注目されています。
基本的な構造は至って簡単ですが、その奥は深く、実は“すまし顔の変なやつ”です。
ここで、ダイベア(株)の宣伝を少々。ベアリングの主な構造は、外輪(アウターレース)と内輪(インナーレース)の間に転動体(ボールやコロ)がはさまっていて、くるくると回転するものです。一般的には転動体どうしの間隔を一定に保つために、保持器(リテーナー)が入っていて、すべりを良くするためにグリースも入っています。JISでは、6300シリーズ、6200シリーズが一般的で、6000シリーズ、6900シリーズと薄肉タイプとなり、6800シリーズは超薄肉タイプとなっています。弊社は、この中でも超薄肉タイプを得意とするベアリングメーカーです。
話を元へ戻します。
ベアリングの世界は、ミクロンオーダーの世界です。ミクロンとは、1,000分の1ミリ。「余程正確な機械で、緻密に加工しているのだろう」と思いきや、実は結構職人技です。「見てみ。削ってる時の火花の出方がええやろ!」はまだしも、「こいつ、顔がええやろ!」は意味不明です。しかし、少し慣れてくると、「顔がいい」製品がなんとなく分かるようになり、嬉しかったりします。もっとも、最近の加工機はコンピュータ制御が進化し、職人技の出番も少なくなりましたが。
ベアリングを製造する上で、唯一「加工」ではないのが「熱処理」です。主に軸受鋼という特殊鋼を使うベアリングですが、この「熱処理」を行うことで製品を硬くし、寿命を飛躍的に延ばしています。しかし「処理」」である以上、「加工」ではない勝手な動きをします。ベアリング製造の場合、基本的に外輪と内輪が対象となりますが、「熱処理」を行うことで、大きくなったり、小さくなったり、曲がったり、反ったりします。時には0.1ミリ単位で曲がったりするので大変です。私の本業は、前工程図の作図です。弊社に入荷してくる熱処理後の製品が、高精度に削るための適切な削り代が付いた状態で入ってくるように、最適な寸法を検討し、図面を書きます。削り代が少ないと、早く削ることができますが、歪の大きい製品が入ってくると、削り代がなくなってダメ。削り代が多いと、歪の大きな製品には対応できますが、削るのに時間がかかってダメ。より安全で、より生産性の高い寸法を決定するのは、緻密な計算の上に立った「経験」です。これも、職人技と言えるのでしょう。
後輩から「なんでこの製品の前工程図は、こんな寸法になってるんですか?」と聞かれれば、「まあいろいろあってな!」と答えます。ちょっと違うでしょうか?
委員長になってもうすぐ8年。私の“はんこ”のある図面は、まだあるかな~
2013年3月27日
連合大阪大阪南地域協議会 役員OB会 会長
中西 喜夫
連合大阪南地域協議会は、連合結成20周年を機に「役員OB会」を結成しました。その目的は、「連合の地域運動を側面から支え、運動前進のため」にあります。
あれから丸3年の歳月は流星のごとしですが、「運動を側面から支える」など、とんでもございませんでした。未だに少人数で細々と“親睦と交流”のくりかえしです。
その背景には、構成会員のほとんどの方が現役就業者バリバリでおられることがありました。
確か、OB会発足時にも、「団塊の世代が65歳に達し企業や組織から離れたとき、OB会という受皿の必要性がある。」と議論しました。ところが、団塊の世代は身体や頭脳が若く、やる気も十分あって、まだまだ働けると思っている人が圧倒的です。
日本の高齢者65~69歳の人口に占める就業者の割合がここに来て急上昇中とか。
現状においても、働いて税金や年金,医療,介護,失業など各種社会保障システムを支えている現役世代が6.5割、支えてもらう側の年少・老齢世代が3.5割。言いかえれば2人で1人を支える2対1の社会です。
これが、2060年にもなれば1人が1人を支える1対1社会が到来すると、国立社会保障・人口問題研究所が発表しています。
人口減少の先には明るさや輝きは見えません。それを阻止するためには、若い世代にがんばって子どもをもっと多く産んでもらって、少子化にストップをかけるのが急務です。(少なくとも5人は産んでもらいたいです。)
しかし、現実からいってそれは不可能です。だから、老後を悠々自適に暮らそうと思うのなら、働かざるを得ないのです。
それはただ働くだけではなく、働く意欲のある高齢者の雇用機会を増やすことであり、培ってきた経験を生かせる環境づくりです。それが「経済の活性化」につながります。
また、「高齢者が自分の経験や実力を生かし、労働に意欲を燃やしている。」ことこそ、何より健康であって、医療や介護のお世話にならずとも済みます。
このことこそが、現役世代が支えておられる社会保障システムの負担軽減にいささかでも貢献できているのではないでしょうか。
つまり、団塊の世代が健康で“総働き”することがOB会の「連合運動を側面から支える。」という目的に叶っていると思うのですが―――。やっぱり言い訳ですか。
2012年4月11日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局長
(クボタ堺労組)
宮田 浩二
素晴らしいテレビ番組に出会いました。
たまたま目がさめて時間を確認するためにテレビを付けたところ、「テレビ寺子屋」という番組をやっていたのです。(関西テレビの日曜、午前5時30分~6時放送)
この日の講師は日本で唯一のチベット人女性歌手、バイマーヤンジンさんでした。
ユーモアたっぷりの語り口で、チベットと日本の文化の違いや家族のあり方などを熱く語っておられたので、眠い目を擦りながらもついテレビに見入ってしまいました。
チベットはほとんどの家族が過酷な環境の中で遊牧しながら移動生活をするという暮らしを強いられているそうで、どんな時でも家族全員で助け合わないと生きていけないということです。そんな中でバイマーヤンジンさんはそれこそ本人も家族も血の出るような努力を重ねて、高校、大学へと進学を果たされたそうです。四川音楽大学では蛮子(移民の子)といじめられながらも優秀な成績で卒業されたと言うことですが、その苦学生の頃に同じ大学に通う大阪出身の日本人男性と知り合って結婚されたということです。
その後、家族関係、食生活、習慣などすべてがチベットとは違う日本での生活が始まり、最初は見るもの聞くもの触るものすべてが、まるで魔法の国にでも来たかのような驚きの連続だったようです。水は遠くまで汲みに行かなくても蛇口をひねるといくらでも出てくるし、槇を拾いに行かなくてもスイッチ1つで火をつけて料理ができ、ボタンを押すだけでご飯を炊く事ができる。それはそれは夢のような国に嫁いできたと大いに喜んだということです。ただ、夫の大祖母や祖母、舅、姑と暮らしていろんな話を聞いているうちに、段々とわかって来たことは昔は日本も家族をもっと大切にし、食べ物も粗末にしなかった、山河など自然を愛するやさしい国民であったはずなのに、いつしか便利になりすぎて物を大切にしない使い捨ての生活が主流になって、豊かな心を忘れかけてしまっているのではないかとバイマーヤンジンさんは感じるようになったのだそうです。
「日本の童歌」は少し昔に置き去りにしてきた大切な暮らしや言葉を思い出させてくれますし、日本人の心としていつまでも歌い継がれていかなければならない宝物だとチベット人の歌手バイマーヤンジンさんは私たち日本人に教えてくれていました。
講演の最後に日本伝統文化の童歌を歌ってくれましたが、「母さんが夜なべをして~手袋編んでくれた♪」・・・バイマーヤンジンさんのその美しい歌声に鳥肌がたちばっちりと目が覚め、その日は一日豊かな気持ちで過ごせました。早起きは三文の徳!ほんとうに素晴らしい番組と講師に出会えたことに感謝します。
2012年3月29日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局長
(クボタ堺労組)
宮田 浩二
2000年にバブルがはじけ、不動産などに手を出していた「ぎょうざの王将」が倒産の危機にさらされていたときに社長になった「大東さん」と言う方がおられますが、この方は料理人からのたたき上げの人で、人を育てるなどの手腕が認められて社長に抜擢された人です。
社長就任のおり、全国326店舗のエリアマネージャーを集めて挨拶をした際に、倒産寸前でしたから、特に業績の悪い店のエリアマネージャーは店長をおろされるか、リストラされるかの覚悟を決めて、誰もがビクビクしていたそうであります。
ところが、大東社長の訓辞は耳を疑うような内容でした。「当社に勤める従業員は誰一人として首にはしない、給料も下げない」・・・と言うことを約束するばかりか、エリアマネージャーには内緒で奥様方全員に「今日、王将があるのは我が従業員を支えて下さる奥様のおかげ」と1人ひとりに感謝の手紙を添えて、臨時ボーナスを出したそうです。
その上に次の3つの改革に取り組みました。
① 餃子をおいしく焼くこと・・・(社長自ら店舗を廻り餃子の焼き方を教えた)
② 店舗の改築・・・(厨房が見えないレストラン方式をやめ、直接お客さんと触れ合える対話式の厨房に改築)
③ 社員を信用する・・・(本社からの押しつけではなく、地元の材料を使ってオリジナルメニューを創作する。)
これで、従業員が燃えないはずはなく、各店長にはこれまでの本部が考えたメニューだけを押し付けるのではなく、地産地消のオリジナルの料理を自分で工夫して作ることも指示し、やりがいを与えながら人を育てることで、業績も徐々に回復して今では大幅な黒字に転換しているということです。
まさに企業は人なりをそのまま実行されたいい例ではないでしょうか。私たち労働組合の活動においても大いに参考になる話しなのでご紹介させていただきました。
2012年1月20日
泉南地区教職員組合
阪本 光司
コラムに何か書いてほしいとの依頼を受け、思いつくままに書いてみました。
1974年に大阪府に教員として採用され、38年過ごしました。この間、関わった子どもは毎年150人入学してくるとしたら、5700人にもなります。この中には、今でも、付き合いのある子ども(最年長は53歳なので子どもと言っていいのか?)もいます。名前も忘れてしまって道で出会ってもわからない子どももいます。
私は、教員の評価は今ある制度のように毎年毎年評価されるのでなく、子どもたちが卒業してからどうなったか、子どもたちが私をどう見ているかが評価だと思います。私はどう評価されているのか、子どもたちの同窓会で聞きたいのですがなかなか怖くて聞けません。自分勝手に自分で評価している私がいます。
教員として、組合の役員として過ごしてきた38年は、楽しいこと、しんどいこと、いろいろなことがありましたが、私にとっていい経験をさせていただきました。
私の好きな例えに「あなたは、『底のない柄杓と底がきちんとある桶』と『底がきちんとした柄杓と底のない桶』のどちらで水を桶に溜めますか?」があります。皆さんはどちらを選びますか。私は『底のない柄杓と底がきちんとある桶』です。『底がきちんとした柄杓と底のない桶』は、底がきちんとした柄杓で一度に水は入れることができますが、溜めるための桶に底がなければ何度水を入れてもたまりません。しかし、『底のない柄杓と底がきちんとある桶』は、底のない柄杓では水を汲むことができませんが、柄杓についた水滴があります。底のある桶なら時間がかかっても水を溜めることができます。すぐに結果は出なくても、じっくり時間をかけて何事もやれば、目的は達成できるという例えです。自分では、この例えをもとに38年間やってきたと思っています。今後の生活もこの例えでやっていきたいと思います。
2011年7月8日
連合大阪堺地区協議会 議長
(南海バス労組)
藤原 広行
まず、前回のコラムを寄稿した川井事務局長に「現実逃避」をさせてしまっている堺地区協議会の藤原です。
いい年の取り方をしたいと思う・・・こんなことを言えば先輩方から「生意気なことを言うな!」とお叱りを受けそうですが、私も47歳になりましたので、一般的には充分オヤジなのです。しかし、労働組合的にはまだまだ青いのかも知れません。早く活動家として一人前になりたいと思います。ただ、最近は精神的にも肉体的にも衰えを感じる時があり、変に物わかりが良くなってきたような気もします。このまま年を重ねているだけではいけないと焦りすら覚えます。最近ふと感じた事なのですが、自分の好きな時間を過ごしている時の顔と普段の顔は同じなのか?普段は疲れた顔をしていないだろうか?
なるべく『疲れたオジサン』にならないようにON/OFFの切り替えをちゃんとするように心がけています。ONは言うまでもなく活動に専念し「今、誰のために何をするのか」を常に意識して前向きに活動しています。OFFを過ごす時はなるべくトキメクことワクワクすることをしようと思っています。
例えば、小さい頃から憧れている車(スーパーカーやノスタルジックカー)を見に行ったり、好きなアーティストのライブに行ったりしてドキドキ感を取り戻しています。それだけに飽き足らず、自分自身も親父バンドを組んで地味に活動しています。仲間とスタジオで練習している空間がすごく楽しくて、時の経つのを忘れてしまいます。また、最近はJリーグのサッカー観戦にも行くようになりました。特定のチームを応援しているわけではありませんが、やはり『生』で見るのは最高です!
OFFの話題ばかりになりましたが、ONも含めていつか自分の過去を振り返った時、はっきりとした軌跡があるように、これからも明るく・楽しく・元気に活動していきたいと思います。
2011年5月20日
連合大阪堺地区協議会 事務局長
(大阪ガス労組)
川井 勇二
現代は、ストレス社会の時代と言われています。皆さんは、ストレスの解消をどうしていますか?メンタルヘルス講習やマッサージ店が流行り、多くの方がストレスと闘い、闘いすぎている感もあります。
私の解消法は、「現実逃避」することです。現実逃避といっても、実際に逃げ出すのではなく、今していることを考えない時間を少し持つようにすることです。いわゆる趣味で緩和する時間を取っています。
具体的には、本を読むようにしています。少し前まで、本を読むという習慣が全くなく、電車もただ「ぼー」と乗っていましたが、電車の中で、本を読んでいる人が多いことに気づき、はじめてみました。ちょっとした空き時間を利用し、こまめに自分自身をリラックスさせるようにしています。頭の中を切り替えるだけで、意外にも体の疲れもすっきりしたような気になるから不思議です。
昨年、“野村の「監督ミーティング」”という本を偶然見つけました。東北楽天ゴールデンイーグルスの元ヘッドコーチの橋上秀樹さんが書かれた本です。野村克也監督は、ミーティングで技術、戦術よりも人生観や組織論を重要にしているそうです。その橋上さんを招いて、講演会も開催いたしました。単なる趣味からイベント企画の参考情報になりました。
みなさんもストレスと闘いすぎないように、自分なりの方法で自分自身をリラックスさせ、早め早めに解消してください。ただし、ストレス解消法に夢中になるとストレスになりますので、ご注意ください。2011年1月6日
連合大阪泉南地区協議会 事務局長
(自治労 岬町職員組合)
小川 正純
この1年が4ヶ月ぐらいに感じた・・・。第3回泉南地区協議会委員会冒頭での宮崎議長の一言でした。新議長、新事務局長で始まった第21年度の泉南地区協議会。始まるや否や貝塚市長選~メーデー、泉佐野市議会選挙から参議院議員選挙へとめまぐるしく選挙活動に奮闘。気がつくと1年の節目を迎えていました。
昨年を振返り、個人としては孤軍奮闘といった意味合いもありましたが、地区・南地域協の皆様の協力で、なんとか無事過ごせた思いと感謝でいっぱいです。
特に泉南地区“飲みにケーション”伝承者である宮崎議長さんとのこの一年のお付き合いは実に楽しく、周りを楽しくさせる伝承者特有の雰囲気には脱帽でした。
また、連合大阪の一員として参画させていただいたおかげで、地域や産別を超えた働く仲間との友愛・連帯を改めて感じることのできた年でもありました。なにか、労働運動を始めた頃の純粋な気持ちになったような気がします。
2010年5月26日
連合大阪泉南地区協議会 議長
(テザック労組)
宮崎 孝行
私が単組の組合長をすることになってすぐに、年配のベテラン組合長さんとこんな会話をしたことがあります。
「宮崎組合長はこれからいろんなことを勉強して行くんだから、その為にはまず、他の単組の組合長に自分の顔と名前を覚えてもらう事だ」と言われ、私も『同感である』と思っていた矢先、「ではどうやって顔と名前を覚えてもらうのか」と聞かれました。私がすぐに「会議等に出席して覚えてもらいます」と答えると、その組合長さんは、「会議に出席するだけではだ~れも覚えてくれやしない、覚えてもらえるのはひざを交えた飲み会などでの交流が一番だ」と助言されました。初めは『飲み会で?』と、理解できませんでした。
しばらくして懇親会の機会があり、その組合長さんに「みんなに注いで回ってきなさい」とアドバイスを受けました。言われるままに回っていると、会議では見た目怖そうな人や話かけにくかった人たちから気軽に話しをしてもらい、他の組合長さんとの距離が近くなったような気がしました。
ベテラン組合長さんは、「会議は会議、会議ではコミュニケーションは充分出来ないよ。懇親会での飲みにケーションがとても重要。黙って飲んでいると意味がない。」とも言われました。この時はまだ、『飲みにケーション?って・・おっさんギャグだなぁ』くらいにしか思っていませんでした。
しかし、その後何回かの会議・懇親会を重ねていく中で、他の単組の皆さんとのつながりも深くなり、皆さんも同様の思いを持っておられることを知り、私も懇親が大事だなぁと肌で感じるようになりました。
連合泉南地区協では図らずも今の立場になりましたが、同じ想いを持つ人の集まりだからこそ様々な話ができ、その中で人と人のつながり(絆)が多いほど自分にプラスになると実感し、あらためて飲みにケーションの重要性を感じている日々です。
幸い私自身は大変お酒の席が好きですので、今後も体力が続く限り飲みにケーションを活用し、絆の木を大きくしていきたいと考えます。
2010年4月18日
連合大阪泉南地区協議会 議長
(JFE継手労組)
野内 克則
4月も中旬を過ぎようとする中、朝夕の冷え込みが未だ続いていますが、一杯飲み屋などで出てくる食材を見ると確実に夏に向けて季節が変わっていると実感しています。しかし、私達を取り巻く環境は依然厳しく変わる気配すら見えず、私達は希望を捨てずに日々の活動や新しい取組みを模索し、環境が好転する様に願っているのが現状です。
そんな寒い環境が生んだのではないと思っていますが、幼児の事件・事故が新聞等で目に付きます。もう少し廻りの人が見ていれば、もう少し注意を払っていれば、防げた事件・事故であると考えています。私達に起こり得る労働災害も、気配り・注意が最重要であると考えています。勿論、前述の事件・事故と一緒にするつもりはありませんが・・・。
人に対する気配り・注意は、その人との繋がりや信頼関係がないと中々出来るものではありませんが、一緒に行動して共感した人と人・仲間と仲間は必ず宝者になると考えています。私は、愛のある行動とそこから生まれた絆を大事にして、今後も宝者を増やしていきたいと思っています。ともにガンバロー!
2010年3月17日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局長
(クボタ堺労組)
平田 茂徳
「北陸」ブルートレインが最後のランを終えることから、多くの愛好家がカメラを引っ提げてホームは大変だったと報道がなされていた。この報道を見て私自身、40年前が思い出された。大阪に向けての就職列車「彗星」ブルートレイン。この寝台列車に乗り一晩かけて大阪に希望をもって就職したのである。この列車も今は過去のものなっている。今こそ飛行機は当たり前、新幹線も当たり前の時代、これらに圧され、次々とブルートレインが世を去っていく。寂しい限りである。
このような出来事からこの節目の40年を振り返ると、世の中は驚くほど色んなことが急速に変化し、むしろ早すぎるのではと恐ろしい感じがしてならない。入社当時勤務していた市内を走る路線バスは30円、運転手とは別に車掌が乗り切符を切っていた。その後「ワンマンカー」表示され、運転手が二役をするようになった。さらにカード化となり小銭の準備は必要無くなった。交通機関は全てこのようにデジタル化し、省人化されてしまった。
私たちの周りの仕事はどうであったのか?入社した当時、書類はガリ版による印刷(トレースに手書きで文章を作り、それを感熱紙に刷る)で社内連絡や書類管理がなされていた。その後、鉛筆は必要としない、ワープロそしてパソコンへと変化し、機能も充実し効率化の時代になった。
「情報」という言葉も最近日常会話に多くなったように感じる。世の中をいろんな出来事が飛び交う「情報」。ここにも大きな変化があった。家庭に電話やテレビが普及したのはそう昔の話ではないが、電話の進化は凄い。いろいろ記念品で使用されたテレホンカードもあっという間にこの世から姿を消した。今はときどき見かける公衆電話の横で携帯電話を使用している状態である。今、子供から高齢者まで携帯電話を手にし、通話だけではない幅広い情報が手元で得られるのである。凄い変化だ。テレビも大きく、薄くまた機能も充実してきた。これからテレビを通して匂いも嗅ぐことできるのではないかと思ったりもする。
これ以外にもまだまだ数えきれない時代のデジタル化はある。
私が大阪に就職した1970年の3月14日、大阪万博が開会された。本年40年となることを記念し、あの熱狂をもう一度思い出そうと映像や写真を展示する「エキスポ‘70パビリオン」が開館した。万博当時は大胆で先端的だった日本、これを機に日本も大きく変化してきたのではないかと思う。
このように世の中が早いスピードで変化した中で、人もアナログからデジタルになったのだろうか。でも人との繋がりだけはいつまでもアナログであっていいのではないか。デジタルに惑わされるな、アナログであれと言いたい。
今、仕事と家庭の調和が求められている。仕事はデジタル 家庭はアナログ 労働組合もアナログ 職場のコミュニケーションもアナログであるべきと思っている。
2009年11月30日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(自治労 貝塚市労連)
西本 仁志
秋の実りの稲穂が頭を垂れている風景を眺めつつ見物に行った泉州各地区の祭礼も終わり、肌の寒さとともに心の寒さも感じる今日この頃です。だんじり好きな私にとって一年で一番寂しさを感じる時期でもあり、多忙な日々に追い立てられ、悪戦苦闘の毎日?を過ごしている今日この頃でもあります。
改めまして、大阪南地域協議会で副議長の任にあたっています貝塚市労連の西本です。私は、祭りが好きで、だんじりが好きで、50年間休むことなく地元のだんじり祭りに参加してきた一人です。今回は私なりに考え、近年第3期地車ブームと言われるだんじり祭りに焦点を当てエコを考えてみました。
縁ありまして某地車工務店に出入りし始めて35年になりますが、その中で昨今の祭り事情と祭りにかかわるエコをいろいろと考えてみました。長年の付き合いで、大工さん方はじめ彫師さん方の仕事の大変さ、危険さ、そして素晴らしい技術の発見があったと同時に、施主町さんの注文の多さも感じました。また一方、昔の大工さんはこれ以上に労力を使って仕事をされていたという尊敬も痛感した次第です。
昨今の自然破壊で、だんじり新調に必要とする樹齢1000年前後の欅や毎年使用するコマ(車輪)などの木々の減少と言う悩ましい問題があります。コマは材質が国内の松材を使いますが、昔の作業は原木を手で挽いて切り、円を描く、それに沿って割り、ヨキや手斧を使って形づくりさらに鉋をかけて仕上げるのです。その労力たるや大変なもので、かつては物を作る職人さんが多く、その労力を知っている祭り参加者が多いからコマの数も最小限度に抑えて使ったものでした。
このコマの直径が二尺前後約60cm。これだけのものを採るにはこれ以上の木がいるわけで、昨今のだんじり祭りブームで年間使われるのが約2000個だとされています。一本で10個、少なければ1、2個の場合もある。10個と考えると200本。まずそれ以上の松の木が姿を消している。このだんじり祭り盛んなりし10年の間に2000本以上の樹齢200~300年の松が1~2年使って捨てられており、その証拠に最近の木の市場に松が出にくくなったと言われています。
一年に2000個のコマを2ヶ月ほどで機械で丸くできる機械生産時代であり、昔よりも容易にコマができる。そこには祭ができる喜びと感謝の気持ちが湧いてこないような気がします。そうすると「そんな祭やめてしまえ」の声も出てくる。しかし、祭り、地車好きの私たちにとっては「それはできん、後世いつまでもこの地車祭りが続いて欲しい」の願いがあるのです。そこで浅はかな考えではあるが、コマを4つ使用している町は2つに、6つの町は4つにと減らせないか?とか、一年ごとに300本ほどの松の苗木の植林のお返しができんかな?とか色々と考えさせられました。そうしなければ祭りができんようになるかもしれませんし…。
2009年10月26日
連合大阪大阪南地域協議会 副議長
(ダイキン工業労組 堺支部)
清水 謙一
大阪府境の最高峰、金剛山(1120m)は、年間登山者数はおそらく全国第2位の山です。もちろん登山者数第1位は日本の最高峰、富士山なのですが、小生、金剛山に初めて登ったのは、昭和53年、当時は学校の耐寒登山ブームもあり、老若男女で冬の登山本道は銀座のごとく人人で賑やかな時代でありました。
当時は、小生もまだ30歳、仕事と子育てで年間の登山回数は数回程度が、やっと、子供の成長と小生の年齢加算に伴い、年間の登山回数は増えて行きました。そして子供達が自立し親離れしてからは登山回数は一気に増え、今、59歳にして年間50回を記録するに至り今年の10月に500回を達成しました。年50回と言えば毎週1回のペース、今や毎週末の日課となりました。何故、ここまでに至ったのでしょう!実は金剛登山は今や、中高年層の絶好の体力維持増進のメッカとなっているのではと感じています。登山者の皆さんには大変失礼ですが、登山者の顔、姿を見る限り小生の年齢を超える人が7割を超えているのではと感じています。正に金剛山は中高年の山と言っても過言ではありません。
メインの千早本道の登山道は登り3.5㌔、一般人で約1H半の行程です。登山道の殆どが木々に囲まれた木陰の道、春夏秋冬を肌で感じる道であること、特に冬は山頂付近で霧氷を見ることが出来、都会の大阪で銀世界の光景が見られる、そして登山で爽快な汗をかき、自分の健康を実感することで、生きがいを感じさせてくれることに皆が魅了されているのではないでしょうか!これを小生は、「金剛病」と称しています。登らないと体がスッキリしないという一種の病気(?)です。毎日、登っている高齢者もいます。年配の女性(おばあちゃん)も少なくありません。ちなみに現在、最高の登山回数を達成している方は、1万数千回の登拝を記録しています。中高年者にとっては、体力増進と長生き(?)に繋がる絶好の山なのです。是非、皆さんも挑戦してみては如何ですか!昔、流行った耐寒登山も組合レク活動として復活させて、中高年層の体力増進のキッカケづくりを検討してみては如何でしょうか。
それと、31年間の登山で環境破壊とまでは言い過ぎですが、ここ数年、小生の嫌いな「蛇」を見たことがありませんし、6月頃、山頂付近で聞こえていた「カッコウ」の鳴き声もとんと聞かなくなりました。一見、自然が残っているかのように見える山も、動物達には住みにくい環境になっているかと思うと何か不気味な気がいたします。
2009年9月18日
連合大阪泉南地区域協議会 事務局長
(自治労 泉南市職員組合)
川端 豊
私たちが日常当たり前のように使用している水道水ですが、世界の多くの国々で深刻な水の問題が起こっています。
バーチャルウォーター(仮想投入水:物を作るときに使用する水量を計算する方法)によって、日本で農業に使用する年間の使用水量は590億立方メートルで、海外から輸入される農作物や穀物などを栽培する時の使用する水の量を計算すると640億立方メートルと輸入するバーチャルウォーターが大きく上回っているのが現状です。
また、海外では大規模な農場で農作物を作るときに使用される大量の化学肥料や農薬などによって河川や湖、地下水まで汚染されている事実もあります。汚染された河川の水と知らずに、飲んだり炊事洗濯に使用する人々は多くいます。発展途上国では安全な水を飲めずに病気によって死亡する子ども達は180万人/年とも言われております。近い将来、安全な水の奪い合いで戦争が起きる可能性があるとも言われています。
いま、日本が出来ることは自給率を少しでも高め海外からの輸入野菜や穀物を減らすことで海外からのバーチャルウォーターを減らすことが大切なのではないでしょうか。
2009年7月28日
連合大阪泉州地区域協議会 事務局長
(自治労 泉大津市労連)
藤原 一也
このコラムを目にしている方はやはり労働組合関係の方が多いと思います。
私が労働組合に役員として関わったのは19年前、連合が発足して間もない頃です。役員になった当初は、青年部を中心に活動していました。当時は「わからないこと(言葉)」だらけ、「産別」「オルグ」「山場」・・今では日常会話としてなくてはならないキーワードですが当時はチンプンかんぷんでございました。7年前に書記長になってから、機関会議などで組合員の仲間に取り組み報告をするとき、「専門用語」の羅列になってしまっている自分に気づいて「組合員のみんなに伝わってるかなぁ・・」「執行部だけの理解にとどまってないかなぁ・・」と自問自答。5年前に委員長になってようやく「わかりやすい組合活動」を目標にできました。機関会議などではなるべく「専門用語はやめよう」「しゃべり言葉」でわかりやすく、質問の時間を多く取ることにしました。また、組合は民主党を支持しているのに、委員長・書記長って共産党の役職名みたいでわかりにくい、なので民主党の役職名を参考に、委員長→代表幹事、書記長→事務局長(民主党は幹事長なんですが自民党と一緒なのはいやなんで連合の役職名に)、執行委員→職場幹事にと、組合の規約を2年がかりで全面的(機関会議の体制等も)に変更しました。先輩諸氏からは賛否の多大なご意見を頂戴して、小さな労働組合内のほんのひとつの変革ですが「わかりやすい」方向に変えるのは本当に「むずかしい」ことの連続なんだなと実感しました。
私はわかりあえなければ、絆は生まれないと思います、絆を生み出すために「わかりやすい」活動・変革をしなければならないと思うんです。7月11・12日に連合大阪南地域協はユニオンユースセミナーを開催しました。ここではあえて「労働運動とは」「連合とは」等の学習会とはせずに「仲間づくり」を主目標におきました。レクリエーションゲーム・オセリングで仲間の絆づくりをして、イベントの企画を一緒に造りあげる姿を見ていると、労働組合の原点を見た気がしてめっちゃ感動しました。このユースセミナーに参加した世代がこれからの組合・連合活動で活躍していく世代なんだなと思うと、彼らにつなげていく世代間の絆が必要になると感じました。連合運動のなかで「わかりやすい」活動・変革を、私たちの世代が頑張ることで次世代への絆を生み出し、地区協議会・地域協議会から連合運動の活性化につなげていかなければなりませんね。
団結ガンバロウ!!
2009年7月10日
連合大阪堺地区協議会 事務局長
(関西電力労組 堺港支部)
田中 宏和
皆さまお疲れ様です。私は今回のコラムで仲間のすばらしいさ・大切さに触れたいと思います。
突然ですが、キムタクが総理大臣になる「change」というドラマを見られたことはありますか。小学校の教師だった彼が、父親の跡を継ぎ、議員になり、色々な仲間に支えられ総理大臣になるという物語です。そこで、キムタクは「人は話し合いを重ねて、お互いの違いを知るんだ」といっていました。
私達は、日頃は一つの企業の中に所属し、知らず知らずのうちにその企業の価値観が身についていきます。また、個人としては生育暦が大きく影響し、個人の価値観が形成されていきます。労働組合の活動は、「face to face」で語り合うこと。組合員さんが一人で抱えているさまざまな問題や課題に取り組むとき、多様な価値観を対等に、語り合うことで、お互いの違いや状況を理解し、問題解決につなげていくわけです。その仲間が広がり、会社を超え、地域を越え、ともに悩み、苦しむ。そのとき何よりも「自分一人ではないんだ」という実感が力となって自分の体に戻ってきます。そして手を取り肩を組んだ時、新たな大きな力がうねりを上げて沸き起こります。私は、そんな感動を何度も体験しました。労働組合活動をしていなければ、味わえない感動です。
今回も、20周年記念事業を計画しています。一人の力では到底できるはずがありません。仕事ではない活動です。時間の捻出、体力の消耗と苦労はさまざまです。でも各人が個性と知性を出し合い、仲間と語り合い作り上げたものです。一つの事業を成し遂げたあと酌み交わす「祝杯」。また、これが最高やね!「ほんま、仲間ってすばらしい!」
2009年6月14日
連合大阪泉南地区協議会 議長
(貝塚市教職員組合)
浦川 英明
連合泉南地区議長の浦川です。小学校教員の私らしく「学校ネタ」でいきたいと思います。
労働組合については、小中学校段階ではあまり詳しく勉強しませんが、小学校6年生の歴史や基本的人権の学習、中学校3年生の公民の学習で少し出てきます。
たとえば、私ならこんな内容で子どもたちに教えるかもしれません。
『会社は、社長(経営者)と社員(労働者)の2つの立場の人たちで成り立っています。
時として社員(労働者)が給料のことや労働条件について、自主的に仲間とグループを作って一緒に社長に要求をすることがあります。このグループのことを「労働組合」といいます。
そして、自分たちの労働条件をよくするために社長と話し合うことができます。これを「団体交渉」といいます。
この話し合い(団体交渉)は、社長(経営者)にとっては社員(労働者)の働く様子や気持ちがよくわかる場となり、社員(労働者)にとっては給料や労働条件を少しずつよくする大切な場となります。結果、社員は安心して仕事に励むことができ、社員(労働者)はまた一段と仕事にがんばるようになり、会社も発展、ひいては社会全体が発展していくことにもつながるのです。』
といった感じです。学校で教えることは、あくまで原則論ですが、大むねこのようになります。
しかし、みなさんおわかりのように、下線をひいたところが現状と一致しない部分ではないでしょうか。
「2つの立場の人たち」→非正規雇用のみなさんをはじめ多様な雇用形態があり、2つとは言えない
「自主的に仲間とグループを作って」→組織率の低下、若年層の組合離れが深刻
「安心して仕事に励むことができ」→リストラ、給与削減、など不安定な雇用状況
「会社も発展、ひいては社会全体が発展」→世界情勢に左右され、不安定な経済状況
この一致しない部分を、子どもたちの将来のためにも、何とかしていくのが、我々連合に求められていることなのかな、と日々学校現場で感じています。
ともにがんばりましょう。
2009年5月22日
連合大阪泉州地区協議会 議長
(サンロックオーヨド労組)
金子 豊光
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」
梶井基次郎の小説「檸檬」の書き出しである。
丸善の本棚に黄金色に輝く紡錘形のレモン爆弾を仕掛け、丸善が木端みじんになるのを愉快に想像したのが、梶井基次郎という一個の鬱屈した精神であったが、時を超え、現代の労働運動、組合活動に携わるトップリーダー、幹部の深層心理に沈殿する現状の日本型労働運動への漠とした不安と焦燥と閉塞感は、組合組織率20%を割ると予期された2001年を境に白い便箋にインクを落としたように徐々に浸透・拡散し、現在も進行形にある。
この呪縛のような時限爆弾から解放される唯一の手段としては、本来的に労働組合が本質として内包するアナーキーな精神に依る所の、徹底した社会の不公正や不条理に対する異議申し立てと、弱者の視点に立った働く者への共感と友愛と連帯の不屈の思想である。
具体的な方法は割愛するが、単組も産別も連合も労働組合の存亡をかけた21世紀であることと、大きな分岐点に立っていることを自覚しなければ未来はありえない。
2009年4月8日
連合大阪堺地区協議会 議長
(クボタ堺労組)
一瀬 幹雄
私は労働組合のリーダーとして、新社会人となった皆さんにメッセージ送りたいと思います。
新社会人おめでとうございます。あなたはどんな会社でどのような仕事に就かれたでしょうか。
どんな会社であれ、どんな仕事であれ、あなたの人生のスタート地点です。
働く仲間の一人としてお祝いを申し上げ、ご活躍をお祈りします。
今、世界同時不況という、過去に経験したことのない厳しい事業環境の中での、あなたの職業人としての始まりです。働くことは生きることであり、働く中に喜びを感じ、悲しみ、つらさを感じ、まさに人生を生きていく舞台であります。
だから、出発の今、仕事とは、生き方とは何かを考えてみよう。私は会社も職場も家庭だと思っています。共に働き、共に協力し、共に人生を生きる家族であります。その様な視点で職場を過ごしてはどうだろうか。
仕事も人生も楽しくなくてはなりません。楽しくないと良い仕事ができません。楽しみは自ら作り出すものです。常に創意と工夫を凝らし新しい仕事に挑戦してください。
労働組合は皆さんの応援部隊です。困ったら、悩んだら、楽しくなかったら、連合大阪の労働組合へお気軽にご相談ください。
人生は笑顔・笑顔・笑顔・・・つらいときでも笑顔、うれしい時はとびっきりの笑顔、必ずあなたの周りに人が集まります。笑顔があなたに幸せをもたらします。
「笑顔の新社会人に乾杯」
2009年2月16日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局長
(クボタ堺労組)
平田 茂徳
今年の年初めであるが文藝春秋発行の雑誌「諸君」に有名人77人の座右の銘が記載されており、それが興味深かったので購入してみた。
その中のひとつが高崎経済大学 八木秀次教授(マスコミにも時々顔を伺うことができる)の座右の名として明治天皇の5か条のご誓文の3項とされているものである。私自身は学業において教科書にも記載され、教師から教わったのだろうが、その5か条なるものに真剣に目をやり、その意味あるところ興味深く感じとれたのはいささか遅かったかと頭をかく。
その3項とは「官武一途庶民に至るまで、各其志(おのおのそのこころざし)を遂げ、人心して惓(う)まざらしめん事を要す。」となっている。八木教授の紹介からすると、まずこの御誓文は明治天皇が明治の新政府の基本方針(国是)を天皇自らが誓うという形で示され、日本の新しい形が示されたものであるという。その明治新政府の課題であったものが今(現在)の我々の時代の課題ではないかという。それぞれが志を遂げて、生きていることが嫌になるようなことがない社会をつくることが肝要であるというこの誓文の意味からすると私たち周りの絆の希薄・労働環境の悪化などなどあまりにも心配ごとが多すぎるのではないかと思う。
明日に希望のもてる社会づくり、地域や家族の絆をもどそう、そういった活動が今求められているように思う。最近、パラダイムシフトという言葉が目立つ、それは何なのか真から考えてみたい。
2009年1月1日
連合大阪大阪南地域協議会 事務局長
(クボタ堺労組)
平田 茂徳
連合大阪の仕事に携わって8年目を向かえることになった。活動の範囲は堺市から岬町までの8市4町の地域組織を中心とした取り組みであった。連合への赴任前の出身単組では外部の活動には縁がなく、いきなりの連合や労福協での他労組とのお付き合いには未知の世界だったし、かなり戸惑いがあった。
が、しかし、恵まれた、地域組織とメンバーの出会いここまでやってこれたと思うのと、後押ししてくれた皆さんに心から感謝したいと思う。
昨年(2007年)の第18回大阪南地域協議会の定期大会では活動のキーワードとして「絆」(大阪南は1つ)を提起させていただいた。私のこの思いは過去7年の活動から大阪南地域協で肌で感じた運動の中から、一体化した組織の動きや仲間愛を強く感じ、結成して20年のこの培われたこの文化・伝統を大事にし、引き継ぎたい、そんな思いのなかで提起させて頂きました。具体的には単組における組合員間のコミニューケーションを大事にしよう 単組産別間のつながりをいっそう大事しよう! 地域の活動を通じて仲間愛を大事にしよう! 地域の安心・安全なまちにして行こう!などなどそこからくる結果は暖かい地域文化が出来てくると思う。
労働組合の取り巻く環境はグローバル化の中で大きく変化してきた、しかし、「不易流行の説」という言葉があるように変えてもいいもの、いつまでも残さなければならないものがあると思う。 連合の存在感をいかに高めていくか! それは 「あってよかった」「信頼がもてる」「あてにされる」「参加したいと思える」活動と地域の絆づくりを常に念頭に置いて活動しなければと思っている。